みちゆき

『木曾路はすべて山の中である。あるところは
岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり・・・一筋の街道はこの森林地帯を貫いていた』

 島崎藤村の長編小説、『夜明け前』の冒頭の文章だ。 私は、この文章に魅かれて旧中仙道、木曽路を歩く機会を狙っていた。周りにいる山女たちは、藤村に興味も示さず、街道を歩くなんてヤワな話に乗ってこないし、文学少女たちは藤村の生地には興味あるけれど、木曽の山中を歩くなんて、女同志では危険だからと、たおやめぶって一向に実現しなかった。ところが、連休前のサクラも終わった頃、前日までは、友人だったH君が、私のいいなりになり得た時期だったので、ボディガードを任じて木曽路への二人旅が実現した。
新幹線で東京から名古屋まで行き中央本線に乗り換えて中津川駅で下車、そこから木曽路を宿場に泊まりながら二泊三日で南木曽まで行くという全行程、徒歩旅行の予定を遂行した。
さて、一日目、中津川から出発、春風に頬をなでられながら、のどかな田園風景の中を歩き始めた。峠越えの山道にかかったが、覚悟をしていたような急な登りもなく、三時間くらいの軽いハイキングで馬籠についた。馬籠は木曽路の一晩南にある宿場で昔の街道の名残をとどめていた。といっても島崎藤村が生まれた町として有名で、宿場の中心に藤村の実家だったという本陣があり、今はその跡が「島崎藤村記念館」になっていた。その日は馬籠に泊まった。
久しぶりの峠越えで、朝はゆっくり休みたかった。ところが、障子が少し明るくなった頃、まどろんでいるところへドアがノックされた。『お客さま、朝のお勤めでございます』、『オツトメ?』、シブシブ起きて、案内されたのが本堂で、そこでは住職が読経し、数名の坊主頭と宿泊客が珍妙な顔をして座っていた。宿泊案内には書いてあったらしいが、宿泊者には、オツトメが義務付けられていたのだ。なんとも目覚めが悪い朝だった。そのころは、馬籠には旅館が少なく宿泊したのは、永昌寺という島崎藤村菩提寺だったのだからしょうがない。
翌日は馬篭から妻籠へ峠を越える。木々に囲まれた木曽の街道を存分に満喫した。杉の木がうっそうと茂り日光も差し込まないような道を進む。昔なら山賊たちが待ち構えていただろう。中山道は、皇家や摂家の女性が将軍家へ嫁ぐ街道でもあったため、別名『姫街道』とも呼ばれていた。将軍家へお輿入れた和宮さんもこの道を通ったとか、東下りは心細かった上に、この山道には恐れをなしただろうと、感無量だった。                                   
二泊目は、寝覚ノ床と言う奇岩が並ぶ景勝地で泊まる。浦島太郎が玉手箱を開けて寝覚めたので、その名がついたとか、浦島神社があったが、もともと浦島太郎なんて伝説上の架空の人物だし、何もご利益がなさそうなので手を合わさず、賽銭もあげなかった。
いよいよ最終日、寝覚めの床を出発して妻籠から南木曽まで最後の峠越え。もう、すっかり山歩きにも慣れて、ご機嫌で『花笠道中』なんか口ずさんでいた。ところが、山中で休みすぎたのか、歩みが遅かったのか、いや浦島神社の祟りだったのだろう。南木曽駅に着いた時は、な、なんと最終列車が駅を発った直後だった。いずれにせよ、次の日まで、もう下りの東京方面行きの列車は無いという。彼も私も翌日から予定が詰まっていた。どうしても今日中に中央本線で東京に戻らねばならない。こんなときに。男は頼りにならないものだ。
私は、勇気を出して国道の路肩に立ち、アメリカ映画のヒッチハイクシーンさながらに、短めのキュロットスカートをずり上げて親指をつきだした。数台、素通りされたが、まもなく若いドライバーが車を止めてくれた。「どこまでいきたいの」「塩尻でも松本でも中央線の駅までお願いできますか」「いいよ」「実はもう一人いるんだけど」「なあんだ、連れが居るのか、しょうがねえなあ」、しぶしぶ了解してくれた。私がVサインを出すと物陰に隠れていた夫がとびだしてきた。
今、思い出しても恥ずかしい話だが、これが私たちの初めての道行き、ハネムーンの顛末である。スタートラインがこんなだったのに、私たちは幸運にも、逸れることもなく、回り道をしたり、道草しながら、二人での道行を続けている。

涙ぐむ眼

今年も9月14日がめぐって来た。苫小牧から1時間半、穂別の富内、風にそよぐコスモスと豊穣の波、大きな虹が山間にアーチをかけて歓待してくれた。賢治観音堂にいくと、今年は初代の横山村長の37回忌だそうで、札幌に住む娘さんがご主人と参っていた。穂別町は浅野晃と親しかった横山町長が彼の影響を受けて賢治のイーハートブを実現しようと発電所を作ったり町興しに貢献した。横山町長を偲んで富内に賢治観音像ができたり、銀河ステーションができたり、賢治が設計した涙ぐむ眼の花壇は部落中に人が花木を植える。毎年一度、賢治の命日の1週間前の9月14日には、花壇の前で、銀河の祭りを催すのだ。
苫小牧に移り住んで4年、私は、祭りの夜は、富内にきて日本各地から集まってきた賢治ファンの人たちと過ごすことが楽しみだった。各地の賢治会の代表者や、自然農法の農家の人、松戸の賢治の朗読会の「つめくさの会」のメンバー、俳優の松村健次郎さんなどが常連だった。
プログラムは例年の通り、地元の富内小学校の校長先生が駅長さんで登場し、小中学校あわせても30人足らずの子どもたちの「☆めぐりの歌」で始まった。今年は、TVで報道されていたように65歳以上の高齢者が創る「田んぼでミュージカル」の撮影が進んでいて、そのテーマ曲や何曲かのオリジナル曲が地元のバンドによって演奏された。まったく、高齢者で映画を創るなんて、奇抜なことを考える人たちだと、うらやましいおもいがする。
 毎年、ここで会う人の中に岩見沢浄土真宗のお寺の僧侶がいる。寺山修二なんかと親交があって、彼自身もポーランドに演劇を学ぶために留学していた変わった人。一見は僧侶とは思えないが、それでも、賢治の詩を詠むと、読経を聞かされているような不思議な気分になる。NYのメーシーズで買った私の大好きな帽子を一目で気に入り、毎年、朗読にその帽子を被る。今年も夏の日差しでやけた私の帽子を取り上げて賢治の詩を朗読した。
 賢治は日蓮宗の熱心な信者で、国柱会(2・26北一輝)に属していた。賢治の童話は布教のために書かれたといわれているが、しかし、彼の父親は、熱心な浄土真宗東本願寺派)の信者だった。全国布教していた若いころの暁烏敏も、何回か賢治の故郷の花巻に夏期講習会ということでやってきては講話をした。賢治の子ども時代の写真の中に、暁烏敏を見つけたときはびっくりした。暁烏敏の全集や日記を読み漁っていたころだったから、この偶然に感動した。暁烏は、石川県の真宗大谷派(お東)の寺に生まれて僧侶となり、清沢満之の弟子となった。
私は数年前に浄土真宗のお寺で主催する「歎異抄」の講座を受けた。中に有名な文章、「善人往生、ましてや悪人おや」がある。私は、もともと善人は救われるんだから、悪人をも救ってくれる、これこそ仏じゃないか、と解釈していた。ところが、そこをひっくり返された。悪人こそ、畜生のあなただからこそ救われる、というのである。「地獄は一定すみかぞかし」にも驚いた。親鸞は、「地獄になど落ちないように」なんていう、あらゆる人間の奥底に潜む上昇志向をくすぐるような、甘っちょろいことは決して言わず、「地獄落ちでも構わない」と言い放つ。恐ろしいほどの「仏(ぶつ)の教え」に対する信頼である。
 親鸞の生き方に私は暁烏敏を重ねた。下世話な話かもしれないが、彼は、女性との愛で苦悩する。妻がいるのに、自分の精神世界を理解をしてくれる女弟子を愛してしまう。彼は悩み苦しみ、しかも、愛した女性は病死してしまう。このことを「更正の前後」で発表し世間に知らしめた。本願寺の役職は追われて自分の寺に蟄居、その時、傷ついた息子をやさしく迎えたのは母だけだった。十億の人に十億の母あれど、わが母にまさる母あらんや・・は、暁烏敏の詩である。
 岩見沢の僧侶氏は、来週、亡き暁烏敏のかわりに、弟子だった林暁宇(ぎょうう)さんを石川県の鍋谷に訪ねるという。彼は、私に大きな人に出会いなさい。心の中に大きな風が吹く。ほんとうの人間に会いなさい、と私を諭す。そう、私も林さんに亡くなる前に会って話したいと思った。
 賢治のおかげで、富内にきて、今年もいい出会いができて、話に花が咲いた。最近、ばさばさ乾いていく自分の心が少し、潤ったような気がする。あの風に揺れるコスモスの花を、傷ついて街にくらす人たちに送りたい。だれもがこういう場所を持ってほしいものだ。

私と音楽 

 
 私が生まれたのは、戦後間もないころで、家は昭和の始めから、映画館を経営していた。敗戦で疲弊しきった人々にとって娯楽の中心は映画だった。町で唯一の館は押すな押すなの大盛況で、映写技師以外の仕事は祖母や母も手伝っていた。赤子の私は、母に背おわれたり映画館の2階の桟敷に寝かされていてそこが生活の場だった。
私が子守唄のように聞かされたのが、映画の主題歌だった。松竹映画『そよかぜ』(1946)の主題歌リンゴの歌や、『青い山脈』(1949)の青い山脈などの戦後の映画や、『のぞかれた花嫁』・(1935)の主題歌、二人は若いや『愛染かつら』(1938)の主題歌、旅の夜風など、いろいろな歌を聞いて育った。東京行進曲、枯れすすき、籠(かご)の鳥、鐘の鳴る丘、君の名等々は、すべて誰に教わるとも無く、映画館で自然に覚えたように思う。映画館の運営を復員してきた伯父が任され、結局,父は公務員になって故郷を離れた。そのころには、私はすっかり歌が大好きな女の子になっていた。
 結局、歌は好きだったが、音楽は楽しみ程度で理系に進んだ。しかし、学生時代には,YMCAでレクリエーション・リーダーとして活動、就職先の日立製作所では研究職だったが、企業内学校で教え、レクリエーション活動を任された。代々木の岸体育館に通い、日本レクリエーション協会の研修や講座で、みんなで歌うことの楽しさや喜びを学ばせてもらった。若い岡本仁先生や後藤新平さんたちが、指導にあたっていた。さらに、キャンプソングやレクソングは、YMCAでのキャンプ研修や実習を通して学んだ。このYMCAでの経験は後にボースカウトのスタッフとして、活動するのにどれほど役にたったことか。
 1972年、3人の子ども達を連れて夫の米国勤務に同行,NYに住んだ。言葉もわからない生活習慣も異なった外国暮しは不自由も多かったが、新しい体験の連続で楽しい毎日だった。子どもたちは、4歳の長男、日本語もままならない2歳の次男、そして8ヶ月の長女。子どもたちを集団生活の場に溶け込ませてくれたのが音楽だった。
そのころ、Ms.Jane Heinが、近くの公立図書館で毎週1回、1時間の「Bilingual Music Progrm」を行っていた。英語を母国語としない子どもたちに歌を通して楽しみながら英語に親しんでもらい現地の生活に慣れさせようという目的だった。たくさんのチャントやわらべ歌をギターに合わせて歌った。
Janeは 地元の『Hoff-Barthelson Music School』でギターを教えていたが、幼児音楽が専門だった。彼女は透き通るような声でギターに合わせて歌う。日本語のわらべ歌や童謡にも興味を示して、私が歌う童謡の歌詞を訳してレコードを作ったりした。ギターは持ち運びが可能なこと、鍵盤楽器より子どもに近く、子どものほうに向かって演奏できる、だから使うべき、というのが彼女の持論だった。私には、3人の子どものために楽器が必要だから、ギターを習うようにと諭した。滞在中の2年間、週1回、帰国したら、幼児の音楽教育をするという条件で無償でフォークギターを教えてくれた。Janeにとって、『音楽は趣味であり芸術であり癒しであり生活手段である』といったが、私自身には趣味でしかなかった。
話はそれから、15年後、私は再度、15歳になった娘と、夫の海外転勤に同伴して米国の田舎に移り住んだ。高校一年生の娘は言葉はまったく話せない。幼児の時とは、まったく違う異文化との遭遇であった。留学を望んで少しでも準備教育があったのならまだしも、突然、親の都合で海外生活を強いられた娘にとっては、日常のやりとりができない状態で、高校生活を送るということは大変な悲惨な状況だったように思えた。ところが、一日の5時間の授業の中に、2時間の音楽の授業をとることになった。もともと音楽だけは得意でピアノやウクレレを習っていた。「ドレミファソラシドは日本語と同じよ」と言う娘の明るい声が今も忘れられない。娘はフルートを習い、学校のオーケストラと、マーティング・バンドのメンバーとして活躍、なんとか高校生活を終えた。その後もインディアナ大学で音楽を専攻。もし、彼女が音楽という賜物を持っていなかったら、どんな人生を歩んだろうか。娘は、音楽は心を表現する手段、言葉がなくても通じ合えることを体得したのだ。
私は、今から15年ほど前、まだ音楽療法と言う言葉も知らないころ、高齢者の施設で歌うボランティア活動を始めた。約1時間、友人3人で歌ったり、話したり。始まる前は、まったく知らなかった人たちと音楽を通して心が通い合い、心と心がふれあうことを知った。歌いながら昔を思い出し、涙したり、目を輝かしたり、癒されたりする(と勝手に思ったが)場面をなんども体験した。老人保健施設で月2回の活動は、約十年間続いた。そして、3年前、ナラティブ音楽療法を知り、今までやってきた実践と音楽療法の学びの理論が合致して、音楽療法士として進んでいく勇気や力をいただいたように思う。。
最近は、逗子市内の特養、有料老人ホーム、ディサービスに5ケ所、地域のサロンに1ヶ所、月6回のセッションと、他にグループホームなど、頼まれればどこにでもでかけて、いろいろなイベントに出演させていただいている。幼い日に聞かされた古い映画の主題歌、レクソングやキャンプソングやゲームも私の中で融合してセッションの中に生かされている。Janeから幼児教室でと・・・と習ったギターは、ヘタクソながらも、高齢者の歌の伴奏にいかされているから彼女との約束を違えたことにはなるまい。要は人生に無駄は無いのだとしみじみ思う。
セッションで眠っていると思っていた方が、TV番組の『水戸黄門』の主題歌『人生涙あり』を弾いたら、顔を上げて大声で歌いだしたり、『早春賦』を立ち上がって両手を前に組んで歌い出す方、調子はずれなのに体中の全エネルギーで歌う。そんなときは私も負けずに大声であわせて歌うのだが、本当に楽しいと思う。
Janeは「音楽は趣味であり芸術であり癒しであり生活手段である」といったが、私にとっては、音楽は芸術にはほど遠く、生活手段にもならないが、趣味であり、まぎれもなく『生きがい』であり、そして多くの出会いを創出してくれる手段である。

しーちゃんの夢

          

孫娘、ハンナとのたわいもない会話は楽しい。
「しーちゃんの夢はなあに」
唐突な質問に私はうろたえた。思わず
「ええ!忘れちゃった」
「どうして忘れちゃったの?」
「眠っているうちに夢を食べる怪獣のバクに全部たべられちゃったのよ」
「私が聞いているのはね、何になりたいかっていう夢で夜眠ったときに見る夢じゃないの」
「それもバクに食べられちゃって、今は何もない」
「そうなんだ。バクって何でも食べちゃうんだね。しーちゃん、かわいそう」
小学一年の孫は涙ぐんでいる。彼女にとって私はお婆ちゃんではあるが、友だち以上、母親以下の存在で、しーちゃんとよばれている。
「ハンナちゃんの夢はなあに」
きっとこうたずねて欲しくて、私への突飛な質問をしたに違いないから、すかさず訊ねた。 
「私は、ものを作る人になりたいの。たとえば洋服とかね・・・」
「ああ、それってデザイナーっていうんじゃない」
「そう、デザイナーだわ。かわいい洋服いっぱい作るの」
着せ替え人形の洋服じゃあるまいし、ま、何でもなれると思うのは子どもの特権だ。彼女は、去年の夏までは、たしか、アシダマナちゃんにあこがれていてアイドルになるのが夢だった。それがクリスマスの頃には漫画家に変り、ピアニストもテニスの選手も登場したが、今また変っていたのか。風船に息を吹き込むように夢は、彼女の成長に合わせて、日々、大きく膨らんでいるようだ。
「しーちゃんは、ハンナみたいに小さいときは何になりたかったの?」
私だって子どものころには、いっぱい膨らませた風船があった。
「信じないと思うけど、私ね、小さい頃はかわいかったの。歌もうまかったし、そのころはアイドルっていわなかったけど、私は美空ひばりちゃんのようなスターになりたかった」
「へえ、そうなんだ。私の小さいときと同じだったんだね」
「でもね、大きくなるうちにいろんなことがわかってきて、アイドルはつまらないって思った。それで、その次には探偵とか、スパイとか、悪者をやっつける正義の味方になれるといいなと思った」
「へえ、すごい。でも、それもなれなかったんでしょ」
 と、孫は気の毒そうな顔をした。
「うん、探偵にもスパイにもなれなかった。でも、おかあさんになりたいなって思ったの」
「へえ、そうなんだ。それでハンナのダディが生まれたんだ」
 孫は満足げな顔をしたので、夢の話はそれで終わった。ほんとはおかあさんには、なりたくてなったのではないのだが・・・ハンナにはそうとはいえない。
 夢といえば、米国に住んでいたころ、友人の彼(アフリカン-アメリカン)の家に食事に誘われた。乱雑に物が置かれていて、足元には毎日食べているというTボーンステーキの骨がごろごろ転がっていた。かつてこれほど汚い家に招かれたことはない。テーブルの上に食事ができるスペースを作り、出てきたのもTボーンステーキ!英語での会話は途切れがちだったが、ふと、壁に貼ってある「I have a dream」とかかれた紙に目が留まった。私が訊ねるのも待たずに、彼はむしゃむしゃ食べている手を止めて、声たからかに暗唱した。
I have a dream」(私は夢を持っている)なんていい響きなんだろう。彼の解説によると、それは人種差別で苦しんできた黒人たちの悲願で平等に生きられる社会が来ることこそが夢だという。
マーチン・ルーサー・キング・ジュニアのワシントンDCでの演説の一部だということを話してくれた。家の汚さもステーキのまずさも忘れて聞きほれた。 
実現しそうもないのが夢だとばかり思っていたが、なんとそのときから二十年もしないうちに黒人の大統領が誕生した。演説をしたキング師も夢の実現に天国で狂喜したに違いない。誇らしげに「I have a dream」と語ったあのときの彼の眼差しが今も鮮明に思い出される。
 私が、夢を持たなくなったのはいつごろからだろう。「夢見る乙女じゃいられない」と、あきらめながら、おとなになってきたような気がする。いくつか掲げた風船が手から離れて飛んでいったり萎んでいくように夢が破れ、落胆したり失望を重ねながら生きてきた。もう、気力もあまりないが、ハンナの『しーちゃんの夢はなあに』に応えられるようにもう一踏ん張り。
『子どもたちが未来に夢をいっぱい描けるような時代がきてほしい』、これが私の生まれたての最後の夢。

黄落のとき

 シルバーウィーク,両親に会うために帰省した。故郷は甲府盆地の南端に位置し、富士川の河岸にある市川大門町。中世以来の和紙生産と江戸時代からの花火の産地であり、夏の神明の花火で知られる。その町に94歳の父と89歳の母が妹夫婦に助けられながら肩を寄せ合って暮らしている。
5年前、妹は、スープの冷めない距離から、声が聞こえ目の届くところにと、家の敷地内にバリアフリーの家を建てさせ、二人の半自立的な暮らしを支えている。
最近の父は、時々脱水状態を起こしたり、風邪をこじらせたりして入院することもあるが、日常は厳しい妹の管理のもと、午前は経理の仕事に励み、午後は、午睡と散歩と規則正しい生活を送っている。
遠くに住んでいるので、ちょくちょくは無理だし、仕事がら、長逗留もできないが、ただ、顔を見にいかないと老親を放り出しているような後ろめたさがつのるから、年に一、二回は帰省する。
「お父さん、ただいま」
と庭にいた父に呼びかけると
「どちらさんですか」
 見知らぬ人に向ける目が応えた。
「どうしたの、私よ、冗談いわないで」
と怒ったように云うと、父は、怯えるように後ずさりした。
母が私に向かって首を横に振り、
「父さん、一番かわいがってたシーコだよ』
と、諭すように言った。母の言葉で、父は一生懸命、私を見つめ記憶の中から私を探そうとした。多分、母の言葉で、脳裏に浮かぶシーコは、こんなおばさんではないはずだ。かわいそうなお父さん。
『いいから入って、時間が経てばだんだんにわかってくるから』
妹が促した。夫が父の手を取ると
「どちらさんですか、ご親切に」  
 ギター伴奏でお座敷ライブが始まった。父が昔好んで歌った演歌や軍歌を歌った。父の十八番の『だれか故郷を思わざる』や『純情二重奏』を歌うと、楽しそうに口ずさんでいた。父の心は、どの時代を浮遊しているんだろうか。私を見る目はうつろだ。
 夕方、父の散歩に付き合った。富士川の河岸を二キロほど一時間かけて歩く。歩みは確かで、杖で地面を押さえながら決まったペースで進む。
私がすれ違ったご近所さんと話している間に父はどんどん歩いていってしまい、ススキが波打つ川辺の道で父の姿を見失った。思わず『お父さん』と読んだが返事が無い。私の記憶の彼方に、お父さんと呼べば駆けてきて抱き上げてくれた父がいた。私は、いつのまにか、一人残された子どものような不安なおもいで父を追った。
 父は、河岸から土手道に上る道を歩いていた。走っていった私が、ねを上げた。
「お父さん、疲れたわ。一休みしない」
「そうしよう、いつもこの辺で休むんだ」
 父が応える。顔を上げると、南アルプスから甲斐駒ケ岳八ヶ岳まで、盆地を取り囲む山々が一望に広がる。
「山は変わらないね」
「うん、裏山に隠れているが富士もある」
「ほんと」
「シーコ、からだを大事にするんだよ」
「お父さんこそ、がんばって」
「うん、それでも、もう疲れたよ」
「『よの中はくふて糞してねておきて……』だねえ。一休さんの言葉だけど」
 父は、うんうんと頷いた。私たちは、ほんの束の間、父子だった。
 山陰に太陽が傾くと一挙に夕闇がおし寄せてくる。晩酌代わりに葡萄ジュースを飲み、わずかばかりの夕餉を食べると、父は妹にベッドに促された。  
「最期は突然だろうけど、慌てないでいいから」と、別れ際に母が言う。
「家で看取ると決めてるから、了解してて」と、妹は頼もしい。
就寝中で父の見送りはなかった。次に会う時、私を認知してくれるかどうか。生きててくれるかどうか。父、まさに黄落の時。

 蝉
 苫小牧の市街地に住んでいた去年の夏は、蝉の声など一向に気にならなかった。ところが今年は関東の南に居るせいか、それとも記録破りの暑さで蝉が大量発生したのか、耳を劈くばかりの蝉の大合唱に閉口した。『蝉時雨』は夏の季語だが、連日の蝉の合唱は、晩秋にしとしと降る時雨というより、むしろ『蝉豪雨』といったほうが相応しい。『うるさい、黙れ』と叱りつけたいのをこらえて汗を拭く。
日陰を作ることにしか役に立たない庭のケヤキの大木を舞台に、セミたちは唱う。主旋律はミンミン蝉、ツクツクが加勢し、バックはアブラやヒグラシが受け持つ。ミンミン蝉は“ミーン”と二分音符で鳴いて“ミンミンミンミン”と4拍の四分音符で続け、最後にもう一度“ミーン”と伸ばして一区切り、これの繰り返し。時々場所を変えるので、鳴きやむが、次々と登場してくるから音が途切れることはない。
 八月中旬、父の新盆で山梨の実家に帰った。盆入りの朝、母が早くから台所に立っている。慣れた手つきで、うどん粉をこねていた。朝からうどんでもないだろうと訊ねると、無言で、平らに伸ばした生地を四角に切ってナスで作った馬の背に乗せた。鞍を作っていたのだ。「大きすぎるんじゃないの」という私に、「お父さんは、馬に乗り慣れていないし、不器用な人だから、落馬しちゃあいけないと思って大きくしたの」と、母は真顔で応えた。
軒先に提灯が飾られ、仏壇の横に祭壇が設けられて、花や果物篭、菓子に酒、そして母の作ったナスの馬が並べられ、初めて彼岸から帰ってくる父の魂を迎える準備が整った。
『お迎えは早く、送りは遅く・・・』と母に急かされて、父の魂を墓に迎えにいった。町全体を見渡す高台で、鎮守の森を背に墓石が並ぶ。父にはモダン過ぎる黒御影の真新しい墓石の下に、骨壷に小さく纏められて眠っていた。
ここも蝉の大合奏。声高に鳴きだした一匹のミンミン蝉。“ミーンと始めたが、ミンミンミン”と途中までしか鳴けない。鳴き直したが、やっぱり最後まで鳴けない、不器用もの、といいかけて、思わず“おとうさん、かもしれない”と思った。せっかく鞍を作って用意している母には悪いが、ナスの馬より、蝉に転生して帰ってきたのかもしれない。
『ありがとう、ご厄介かけます』が、口癖だった父。周りへの気遣いばかりで、家族や介護者を困らせることはほとんどなかった。旅立ちの日もデイケアで過ごし、いつもどおり夕食を食べて、床に入り、眠るように、ひっそりと逝った。数日前に『世話になったなあ。ありがとう。もういいから』と母に言ったそうだから、自分では最期を予感していたのかもしれない。
若いころ、父は軍人で中国の戦線にいた。吉田松陰の辞世、“親思う心にまさる親心 今日の訪れなんと聞くらむ”を好きで松蔭の母を思うこの歌に自分の境遇を重ねていた。母に戦死の報を聞かせて悲しませてはならないと、必死で生き抜いたのだと話してくれた。享年九十七歳、これだけ長く生きたのだから、父の死を悲しむより、彼岸で祖父母は首を長くして待っていたのかもしれない。
暦が進んで彼岸が過ぎた途端、秋がきた。土の中で、最期の1週間だけ地上の明るい光の中で、命の力を振り絞り鳴く蝉たち。夏の間だけ生きることを許されていた蝉の声が消えて虫の音に変わった。夏を謳歌していたあの蝉たち、いったいどこにいってしまったのだろう。いまいましかった声が、今はなつかしい。

  蝉
 苫小牧の市街地に住んでいた去年の夏は、蝉の声など一向に気にならなかった。ところが今年は関東の南に居るせいか、それとも記録破りの暑さで蝉が大量発生したのか、耳を劈くばかりの蝉の大合唱に閉口した。『蝉時雨』は夏の季語だが、連日の蝉の合唱は、晩秋にしとしと降る時雨というより、むしろ『蝉豪雨』といったほうが相応しい。『うるさい、黙れ』と叱りつけたいのをこらえて汗を拭く。
日陰を作ることにしか役に立たない庭のケヤキの大木を舞台に、セミたちは唱う。主旋律はミンミン蝉、ツクツクが加勢し、バックはアブラやヒグラシが受け持つ。ミンミン蝉は“ミーン”と二分音符で鳴いて“ミンミンミンミン”と4拍の四分音符で続け、最後にもう一度“ミーン”と伸ばして一区切り、これの繰り返し。時々場所を変えるので、鳴きやむが、次々と登場してくるから音が途切れることはない。
 八月中旬、父の新盆で山梨の実家に帰った。盆入りの朝、母が早くから台所に立っている。慣れた手つきで、うどん粉をこねていた。朝からうどんでもないだろうと訊ねると、無言で、平らに伸ばした生地を四角に切ってナスで作った馬の背に乗せた。鞍を作っていたのだ。「大きすぎるんじゃないの」という私に、「お父さんは、馬に乗り慣れていないし、不器用な人だから、落馬しちゃあいけないと思って大きくしたの」と、母は真顔で応えた。
軒先に提灯が飾られ、仏壇の横に祭壇が設けられて、花や果物篭、菓子に酒、そして母の作ったナスの馬が並べられ、初めて彼岸から帰ってくる父の魂を迎える準備が整った。
『お迎えは早く、送りは遅く・・・』と母に急かされて、父の魂を墓に迎えにいった。町全体を見渡す高台で、鎮守の森を背に墓石が並ぶ。父にはモダン過ぎる黒御影の真新しい墓石の下に、骨壷に小さく纏められて眠っていた。
ここも蝉の大合奏。声高に鳴きだした一匹のミンミン蝉。“ミーンと始めたが、ミンミンミン”と途中までしか鳴けない。鳴き直したが、やっぱり最後まで鳴けない、不器用もの、といいかけて、思わず“おとうさん、かもしれない”と思った。せっかく鞍を作って用意している母には悪いが、ナスの馬より、蝉に転生して帰ってきたのかもしれない。
『ありがとう、ご厄介かけます』が、口癖だった父。周りへの気遣いばかりで、家族や介護者を困らせることはほとんどなかった。旅立ちの日もデイケアで過ごし、いつもどおり夕食を食べて、床に入り、眠るように、ひっそりと逝った。数日前に『世話になったなあ。ありがとう。もういいから』と母に言ったそうだから、自分では最期を予感していたのかもしれない。
 若いころ、父は軍人で中国の戦線にいた。吉田松陰の辞世、“親思う心にまさる親心 今日の訪れなんと聞くらむ”を好きで松蔭の母を思うこの歌に自分の境遇を重ねていた。母に戦死の報を聞かせて悲しませてはならないと、必死で生き抜いたのだと話してくれた。享年九十七歳、これだけ長く生きたのだから、父の死を悲しむより、彼岸で祖父母は首を長くして待っていたのかもしれない。
暦が進んで彼岸が過ぎた途端、秋がきた。土の中で、最期の1週間だけ地上の明るい光の中で、命の力を振り絞り鳴く蝉たち。夏の間だけ生きることを許されていた蝉の声が消えて虫の音に変わった。夏を謳歌していたあの蝉たち、いったいどこにいってしまったのだろう。いまいましかった声が、今はなつかしい。