ああ、無情

 ああ無情 
「お客様、パスポートと航空券を拝見します」
若い女性のグランドスタッフの声。
「はいはい」返事より早く右手が伸びる。
姉妹都市提携三十周年記念事業でニュージーランド(NZ)のネィピア市を訪れる市民訪問団に加わった私は、朝、一行四六名の一人として苫小牧市役所前を出発した。予定通り、千歳空港から羽田、シャトルバスで成田へとすべてスムーズだ。後は、チェックインしてオークランド行きへの搭乗を待つばかり。土産のいっぱい詰まったスーツケースの重さを気にしながら、心はネイピアに飛んでいる。
「お客様、新しいほうのパスポートをお願いします」
『新しいほうの』と、言葉を反芻した。パスポートは期限切れで、今回の渡航のために先月取り直したばかり。えっ、もしかして私。
「こちらの期限、切れております」
やっぱり、古いパスポートを間違えて持ってきてしまった。すっと血の気が引いていく。おっちょこちょいの私の事だから、忘れてはいけないと二週間も前から、旅行中、肌身離さず持っているポーチに入れておいた。今朝も家をでるとき、ちゃんと確認している。何とそれが、使えないパスポートだったとは。スタッフが持ち場を離れ、カウンターから飛び出してきたことが事態の重大さを物語っていた。
「お客様、まだ一時間半あります。ご自宅にご連絡してお家の方にもってきて頂ければ間に合うかもしれません」
「家には誰もいません」
「車を飛ばしてご自分で取りには・・・」
「あの、家は北海道です」
「まあ、それはほんとうにお気の毒に。本日皆様とのご出発は無理です」
無情にも彼女はチケットと使えないパスポートを私に手渡してカウンターに戻っていった。
その瞬間から、私は毒りんごを喉に詰めた白雪姫のように、悲劇のヒロインになった。異変に気がついた弘美さんが
「どうしたの」
と声をかけてきた。
「パ、パスポート、古いのを持ってきちゃった!」
あまり大きな声だったので、楽しげにチェックインの列に並んでいた人たちがびっくりして私を見た。その場の空気が一瞬にして凍りつき、心配そうな顔が並んだ。
「落ち着いて探してごらん」
いつになく弘美さんは冷静でやさしい。彼女は重いスーツケースを人目につかない所に運んで、丁寧にチェックしてくれた。
添乗員が駆けて来た。彼も興奮気味に
「パスポート忘れたんですか。どこかに入っていませんか」
忘れたのでない、違うのを持ってきただけだ、と言いたかったけれど黙ってうな垂れ首を振った。
「どうしましょう。無かったら長谷川様は皆様とはご一緒には出国できません」
そんなことはわかっている。どうすりゃいいのか、それが問題なのだ。人生でこんな窮地に追い込まれることは滅多にない。落ち着いて、干からびている脳みそをかき集め、この絶体絶命のピンチを切り抜けなければと、自分に言い聞かせた。
結局、たいした知恵もなく、新しいパスポートを取りに苫小牧まで戻るしかなかった。出発前の慌ただしい中で添乗員は無理をして翌日のオークランド行きの便を押さえてくれた。
「ネイピアで会いましょう」
「必ず来るんだよ」
と声をかけてくれる人たちに、いってらっしゃいと、精一杯の笑顔を振り撒きながら手を振った。みんなの姿が見えなくなり、重いスーツケースを抱えてロビーに一人残されたときは、立っているのがやっと、消え入りたいほど惨めだった。
翌朝、再度、見送られ千歳空港を発った。一人旅で一日遅れでネィピアに着き訪問団に合流、その後の交流も観光も楽しかった。
私が取り違えたのは、もちろん、自分の不注意だが、二つのパスポートは、サイズ、も色もまったく同じだった。表紙を開ければVOIDのスタンプが押されているのだが、ページを開けてみないとわからない。
後日、苫小牧市では、パスポートを発券する際に古いほうの表紙にパンチを入れる機械を発注した。そして、なんと孔を開ける第一号のパスポートは、私の古いパスポートだった。