海からの贈り物(塩の話)

海からの贈り物  
友人から強く勧められて、『クリスマス島 海の塩の会』に入会した。入会金の千円を振り込んだら、丁寧な礼状と五百グラムほどの塩が送られてきた。それまで、塩は何のこだわりもなく、化学的に処理された食塩を調味料として使っていたのだが、はて、送られてきた塩は、どう違うのだろう。改めてクリスマス島の海の塩を手のひらにおいて眺めた。粉末ではなく結晶で塩の粒がきらきらしていた。舐めると心なしか、まろやかだと思った。
「塩を絶対切らしてはいけないよ」とは祖母の教えだ。塩を切らすと貧乏になると母にも言われた。私の故郷は山梨で海がない。郷土の戦国武将、武田信玄が今川、北条から経済封鎖され塩不足で困窮していた時、敵の上杉謙信が塩を送って助けたという話もあるから・・・それで山梨では特に塩は大事なものとして、扱われてきたのだろうか。理屈はさておき、その教えを守っていた。クリスマス島の塩は、粗くて使う気にもなれず食器棚の隅っこに置いた。塩には代わりがないのだから、こうしておけば『塩を切らす』ことにはなるまい。
『海の塩の会』から、会員向けの講演会の案内が来た。入会を勧めてくれた友人の伯父さんで、キリバス共和国名誉領事の栗林徳五郎さんが講演者だった。長身で八十歳だとは思えない身のこなし、若いころはハンフリー・ボガードのように素敵だったろう。『クリスマス島の塩』の製造にかかわり日本に南太平洋の塩をもたらした人物だ。
 クリスマス島はハワイの真南、赤道の直下のキリバス共和国に属する。人口約三千人程度の小さな島。海抜が一番高いところでも二メートル以下、温暖化による海面上昇が続けば、島全体が水没して、住んでいる島民は難民として移住しなければならない状況におかれている。島周辺の海域は、北極・南極の深海に溜まっている莫大なミネラルが移動してきて、海水中に豊富に含まれるミネラルやプランクトンが鳥や魚を繁殖させている。
一九八五年、国連は産業のない現地の人のために、塩田をつくり、その海水で天日干しのミネラルを含んだ良質の塩の生産を始めた。残念ながら事業は継続できず、施設は荒れたまま放置された。これを補修し、塩の生産を再開したのが、栗林さんだった。
しかし、当初は、自然塩の輸入・販売はそう簡単なものではなかった。私は社会科で 瀬戸内海の沿岸で製塩業が営まれていると習った。ところが、昭和四十七年(一九七三年)に、国は自然塩の製造を廃止し、イオン交換の海水濃縮装置で製造された塩のみが「食塩」として販売を許可されたにだ。長年、私が瀬戸内海の塩田の天日干しの塩と思ったいたのが、工業生産による高純度のNaCl(塩化ナトリウム)だったのだ。
その後、自然塩・天日塩(てんぴしお)の復活を求める栗林さんたちの運動の結果、政府は一定の制約のもとで自然塩の使用を認めることになり、今は、さまざまな塩が売り場に並ぶ。     
昭和三年生まれの栗林さんは、南太平洋との南洋貿易という会社を継いだ。否応無く太平洋戦争に参戦、多くの日本人や現地人の死を目の当りにした。戦後は、会社も解散させられたが、その後、会社を復活して、南太平洋を舞台に仕事をしてきた。
栗林さんは「塩の製造の目的は利益追及ではない。事業を通してすばらしいクリスマス島の環境を護っていきたい。南太平洋の楽園を水没させないためにも」と結んだ。
「最後に皆さんに是非、『南洋航路』、古い歌をお聞かせしたい。
♪ 赤い夕陽が 波間に沈む 果てはいづこか 水平線よ
今日もはるばる 南洋航路 男船乗り かもめ鳥」
と、ハンフリーボガードは、舳先に立って波を蹴散らして進むように大きな声で歌いだした。目の前に大海原が広がっているようだった。(この歌がラバウル小唄の元歌だということを後日知った) 
今年も、「クリスマス島の海の塩の会」から、海の贈り物が届いた。最近は粉末状の塩が来るから、常用の調味料として使っている。

このエッセイを書くにあたり栗林徳五郎さんの消息を探ったら、昨年二月に八十四歳で永眠されていた。魂は遥か南洋航路か。合掌

風と共に・・・

『風と共に・・・』
長谷川 静
中身より字の大きさで選ぶ本
有料老人ホーム協会のシルバー川柳入選作品だ。これは然り、私も、特に目を患ってからは、大活字本コーナーで選ぶ。また、本の厚さや重さも選ぶ要因だ。さらに書店で購入するときは値段も重要な要素になる。
私の書棚で、まったく反対に、字が小さく厚くて重くて、どこで買ったのか、まるでおぼえていないが、堂々としているのが『風と共に去りぬ』の続編、『スカーレット』だ。ツンドクだけで終わらせてはと、棚からとり出した。ずっしり腕にくる。著者はアレクサンドラ・リプリー、訳者は森瑤子、重さは一、二キロ、厚さは八センチ、一〇九八ページ、値段は四八〇〇円。
マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』は、一九三六年刊行だから、八〇年近くも昔。今も、読み継がれて増刷や新訳が書店に並ぶ。南北戦争を背景にして生き抜く南部の強い女性、スカーレット・オハラが主人公だ。私は、小説より、むしろ、映画のヴィヴィアン・リー演ずる大輪の真っ赤なバラのようなスカーレットに心奪われた。  
映画を初めて観たのは、高校三年生のとき、家の近くの映画館だった。休憩をはさんで約四時間あまり、たしか、終わって館を出たら、薄暗くなっていた。帰ると母から『図書館だったの。目が真っ赤よ。お疲れ様』といわれ、映画を観ていたとは言えず、顔を伏せていた。
ストーリーはいうまでもないが、一人の女性の人生を主軸にして、奴隷制度を持つ南部の階級文化が、戦争という烈風と共に消え去り、荒廃や混乱の中から、新しい再建の希望を残して終わる。プランテーションでの豪華なパーティやアトランタ炎上のシーンに驚嘆。男たちに取り巻かれて華やかに振舞うスカーレットの姿が浮かぶ。
映画の翌日、授業中に映画に一緒に行った悪友のネコから、レットとアシュレ、どっちが好きなタイプ?、とメモが回ってきた。早熟なネコはレット、初心(うぶ)な私はアシュレ、私たちは世の中には、まるでこの二つのタイプの男性しか存在しないように激論した。結局、それから十年後、ゆえあって、憧れのアシュレとはほど遠いところで手を打ったが。ネコもレットとはま逆な年下の男性と結婚したとか。
さて、その後のスカーレットは?これは、多くの読者や映画ファンの関心事だった。マーガレット・ミッチェルは、『あれは完結した物語』といって続編を書かなかったそうだ。私は何回か、ビデオを観ては、続きを想像したものだ。
一九九一年、続編、『スカーレット』がアレクサンドラ・リプリーによって書かれ世界中で翻訳され、日本でも、作品のできあがる前から新潮社と契約をしていた森瑤子により翻訳された。私の手元にある本だ。映像化もされた。
物語は、舞台をアイルランドに移してさらに彼女を成長させる。子育てしながら自立して運命を切り開いて行くスカレーット。しかし、最後はよくある恋愛物語のようにハッピーエンドで・・・TVドラマだったせいか、私が歳を取ったからか、少女のとき田舎の映画館で観た強烈な印象とは違って少し、物足りなかった。前編の背景に流れていた時代という疾風が、すべて吹きとばしてしまったのかもしれない。
森瑤子さんは一九九二年末にこの本の訳本を刊行して、翌年七月に亡くなった。最後の大仕事だったのかも知れないが、風は彼女をも彼岸に運んでしまったようだ。
私は『スカーレット』(四部構成)の一部だけを読んで本棚にもどした。全部読みきるまでは生きなければと思いながら。

ああ、無情

 ああ無情 
「お客様、パスポートと航空券を拝見します」
若い女性のグランドスタッフの声。
「はいはい」返事より早く右手が伸びる。
姉妹都市提携三十周年記念事業でニュージーランド(NZ)のネィピア市を訪れる市民訪問団に加わった私は、朝、一行四六名の一人として苫小牧市役所前を出発した。予定通り、千歳空港から羽田、シャトルバスで成田へとすべてスムーズだ。後は、チェックインしてオークランド行きへの搭乗を待つばかり。土産のいっぱい詰まったスーツケースの重さを気にしながら、心はネイピアに飛んでいる。
「お客様、新しいほうのパスポートをお願いします」
『新しいほうの』と、言葉を反芻した。パスポートは期限切れで、今回の渡航のために先月取り直したばかり。えっ、もしかして私。
「こちらの期限、切れております」
やっぱり、古いパスポートを間違えて持ってきてしまった。すっと血の気が引いていく。おっちょこちょいの私の事だから、忘れてはいけないと二週間も前から、旅行中、肌身離さず持っているポーチに入れておいた。今朝も家をでるとき、ちゃんと確認している。何とそれが、使えないパスポートだったとは。スタッフが持ち場を離れ、カウンターから飛び出してきたことが事態の重大さを物語っていた。
「お客様、まだ一時間半あります。ご自宅にご連絡してお家の方にもってきて頂ければ間に合うかもしれません」
「家には誰もいません」
「車を飛ばしてご自分で取りには・・・」
「あの、家は北海道です」
「まあ、それはほんとうにお気の毒に。本日皆様とのご出発は無理です」
無情にも彼女はチケットと使えないパスポートを私に手渡してカウンターに戻っていった。
その瞬間から、私は毒りんごを喉に詰めた白雪姫のように、悲劇のヒロインになった。異変に気がついた弘美さんが
「どうしたの」
と声をかけてきた。
「パ、パスポート、古いのを持ってきちゃった!」
あまり大きな声だったので、楽しげにチェックインの列に並んでいた人たちがびっくりして私を見た。その場の空気が一瞬にして凍りつき、心配そうな顔が並んだ。
「落ち着いて探してごらん」
いつになく弘美さんは冷静でやさしい。彼女は重いスーツケースを人目につかない所に運んで、丁寧にチェックしてくれた。
添乗員が駆けて来た。彼も興奮気味に
「パスポート忘れたんですか。どこかに入っていませんか」
忘れたのでない、違うのを持ってきただけだ、と言いたかったけれど黙ってうな垂れ首を振った。
「どうしましょう。無かったら長谷川様は皆様とはご一緒には出国できません」
そんなことはわかっている。どうすりゃいいのか、それが問題なのだ。人生でこんな窮地に追い込まれることは滅多にない。落ち着いて、干からびている脳みそをかき集め、この絶体絶命のピンチを切り抜けなければと、自分に言い聞かせた。
結局、たいした知恵もなく、新しいパスポートを取りに苫小牧まで戻るしかなかった。出発前の慌ただしい中で添乗員は無理をして翌日のオークランド行きの便を押さえてくれた。
「ネイピアで会いましょう」
「必ず来るんだよ」
と声をかけてくれる人たちに、いってらっしゃいと、精一杯の笑顔を振り撒きながら手を振った。みんなの姿が見えなくなり、重いスーツケースを抱えてロビーに一人残されたときは、立っているのがやっと、消え入りたいほど惨めだった。
翌朝、再度、見送られ千歳空港を発った。一人旅で一日遅れでネィピアに着き訪問団に合流、その後の交流も観光も楽しかった。
私が取り違えたのは、もちろん、自分の不注意だが、二つのパスポートは、サイズ、も色もまったく同じだった。表紙を開ければVOIDのスタンプが押されているのだが、ページを開けてみないとわからない。
後日、苫小牧市では、パスポートを発券する際に古いほうの表紙にパンチを入れる機械を発注した。そして、なんと孔を開ける第一号のパスポートは、私の古いパスポートだった。

子別れ

  

苫小牧に住み始めて二年目の夏、北海道の臍といわれる大雪山にでかけた。大雪山といっても、ひとつの頂がある訳でない。主峰は旭岳(2291メートル)で、いくつかの峰々が連なる連山であり登山愛好家にとっては格好の縦走コースだ。近年は、表玄関が旭岳ロープウエィとすれば、裏からは黒岳ロープウェイが山の中腹まで運んでくれるから、登山の楽しみばかりでなく、夏には山に咲く花々、秋には道内で一晩早いといわれる紅葉を楽しむ多くの観光客が訪れる。私はそんなお気楽な観光客のひとりだった。
旭岳ロープウェイで上がって、頂上までは登らず、池を巡って、イワカガミやシャクナゲチングルマといった高山にしか生息しない花々を楽しんだ。弁当を食べ終わってなにげなく前方をみると、二〜三匹のキタキツネがじゃれあっている。しばらく眺めていたのだが、ふざけて遊んでいるというより、決死の様相で自分のテリトリーに侵入するものと闘っているように見えた。近くにいた人たちが誰ともなく『子別れだ・・・』とつぶやいた。
キタキツネには苫小牧から支笏湖まで勇払原野を貫く道で何回か遭遇したことがある。もともとあった獣道を分断するように道路を作ったせいなのだろうか、早春、あたりが唐松林のやわらかな新緑に覆われる頃、親ギツネが子ギツネを率いて道を横断する。夏の終わり頃になると、キツネは、独り立ちしたのか、一匹で歩いている姿を見かけた。冬になると、エサを求めて人家まで降りてくる。やせ細った姿には憐憫の情がわくが、下手に手を出したり物を与えたりしてはいけない、と友人に忠告されていたので、キツネと会っても眼を合わせないようにしていた。
『子別れ』ということばは、話好きのその友人から詳しく聞かされた。春、生まれた子ギツネたちは、母ギツネの温かい愛情に包まれ育てられ、自立のための様々な訓練を受ける。そして、夏の終わりの頃、母ギツネに突き放される日が来る。子ギツネが巣穴に入ろうとすると、母ギツネは狂ったように彼らを追い払おうとする。子ギツネは思いもよらない出来事に当惑し、何度も何度も哀願して巣穴の中に入ろうとするのだが、母ギツネは徹底して彼らを拒否する。子ギツネは、突然、家族と一緒の安全な幸せな暮しから、それまでに味わったことのない外界の厳しさの中へ放り出されて生きていかなければならない。あるものは、吹雪の中で食を失い、あるものは天敵に襲われ、また人里に降りて輪禍にあって死んでゆく。
「自然界は厳しい、特に北海道の冬はねぇ。生き残れるもののほうが稀なのよ」と彼女は結んだ。
私はしばらく放心したように子別れの儀式に見とれていたが、ふと、眼をそらした瞬間に、キツネたちは視野から消えていた。子どもたちはこんな山中で放逐されたのだろうか。無情なことだ。
人間の子どもたちは、親に甘え親もまた子どもを過保護といわれるほどに溺愛する。その愛は際限がなく、入学式、卒業式はては、入社式にも付き添っていくとか。学費はもちろん、過分な生活費、分不相応な結婚式、新居や新所帯の家具等など、親から多額の援助を受ける。それらを親子とも当然と考えている。
ニートやパラサイトシングルといわれる親に依存し続ける若者の出現には驚かされる。子どもたちに苦しい体験はさせないで豊かな生活をと願うのも親の愛かもしれないが、キツネの『子別れ』のように深い愛情をもって子どもたちを突き放して自立させていく子育て、わざと試練に遭遇させて生きていく力を与えるといった母親の愛に、私たちは、学ぶものがあるような気がする。
我が家では娘が離婚して一歳だった子どもを元夫に取られ、今は、都心でひとり暮らしている。娘の『子別れ』を思うとあまりに不憫で切ないが、そのぶん、子どもは、私にとっては顔もわからない孫だけれど、強く逞しく育ってくれていることと信じている。
今夜は啓蟄、春は遠い北海道はまだまだ冬ごもりだ。夜半に雪が上がり冴え冴えと星が瞬いている頃、山野で餌を採ることができないキツネが食べ物をさがしに里に下りてくる。雪の上に残ったキツネの足跡から少し離れたところに複数の足跡を見かけることがあったが・・・。こんな夜、子ギツネを案じた母キツネが黙って見守っているのかもしれない。
十時か、まだ、寝てはいないはず。夕飯は食べたかしら、風邪でもひいて寝込んでやしないかしら、『子別れ』できない母は、娘を案じて携帯を引き寄せる。

IKADA

クラスメートの男子二人の様子が変だった。授業が終わるや、勇んで教室をとびだしていく。 計画を練って綿密に準備をするような彼らではないのに、柄にもなく地図を持ち出したり、天気を気にしていた。何か突飛なことを目論んでいるに違いない。決行する前日、『土左衛門になった時、身元がわからないと困るから』と、打ち明けられるまで、まさか日本三大急流富士川を自分たちで造った筏で下ろうとは。
そのころ、英語の授業でマーク・トウェインの『ライフ オン ザ ミシシッピー』を読んでいた。トムソーヤがミシシッピー川に筏を浮かべて冒険の旅に出たという話を聞いたが、それに触発されたのか、ただ、単に川が近くにあるから筏で下ったら面白いということだったのか、なにせ、半世紀も前のことなので仔細は忘れた。
秩父山系から流れ出た笛吹川、西からの釜無川が合流して甲府盆地の中心で富士川となる。二人は合流地点に近い笛吹川にかかる桃林橋の下を出発点にした。目的地は駿河湾、いや、太平洋を目指していた。数ヶ月前から集めたもうそう竹やプラスチックをロープでがっちり結わえて二人乗りの筏は完成。そのころ、ライフィジャケットなんてものは、貧乏学生には手に入らなかったから、落ちたら最後の命がけの冒険だった。
出発直後は『これが三大急流か』と思うほどの、ゆったりした流れで、それぞれが持った竹の棹でバランスを取りながら進んだ。川辺で糸を垂らしている釣り人たちが目前に現れた異物に驚きながらも『ガンバレヨー』と声援を送る。川下り、なんと快適だろう。ところが、20キロくらい進んだころから、浅瀬になり、岩がゴロゴロしていて川幅が広くなった。ものすごい流れだ。必死で速度をコントロールし岩に当たらないようにかわして進んだ。が、突然、岩に取られて棹が流された。まずいと、思った途端、筏の前に大きな岩が現れた。ガツと、岩に激突して乗り上げるや、筏は大破して二人は川に
投げ出された。サングラスやカメラ、食料が入ったリュクが川下に流れていく。なんとか岩に辿り着き、しがみついているところを釣り人に救出された。
二人のわ(ば)か者の一人は私の夫だ。岩に乗り上げてばかりの人生だが、なんとかここまで来た。もう一人の友人は、十年ほど前から音信不通。今はどうしているのか。苦境にあっても、筏下りですべて流された時、命があったからいいじゃんと、笑いあったことを思い出していて欲しい。連絡くれれば、ロープでも救命ボートでも持って助けに行くのだが。                                                                                                                                           

みのり

昨年の春、桜が散ったころに父は彼岸へ旅立った。去年から追悼文集やアルバム作りをしながら父のことを懐かしく思い出す。同居もしていなかったので、いつもは頭から離れていたくせに、もう居ないのかと思うとたまらなく悲しい。
享年九十七歳、家族のために働き続けた人生、誰にでも温かく優しく接し、子煩悩の父だった。父は四十年間、警察官としては地域を守り、常に弱い人の側に立って働いた。死んだ後に受章をして戴いたが、額に入った立派な内閣総理大臣からの賞状より、警察官を辞めるとき百人もの地域の人たちが書いてくれた『ありがとう』の寄せ書きが大きな勲章だ。
父は若い頃から、幕末に生きた維新の精神的な指導者とも言われている吉田松陰の信奉者だった。脚色もあろうが、お酒が入ると子供だった私に松蔭の話をした。黒船が伊豆に現れたときは、アメリカに行こうと小船で黒船に近づき捕らえられた話やお母さん孝行だったという話、投獄されて斬首された話、何度も同じ話を繰り返し聞かされたものだから、子どもながらにいつのまにか、辞世の歌(家族宛)まで覚えてしまった。
親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん 
「親心」の深さを読んでいる。祖母が大好きだった父は自分が私に親を大切にと戒めているのでなく、自分が子として祖母のありがたさを語っていたように思う。父は十年ほど前から恍惚の人となり、松蔭の留魂録を手にしたのは亡くなった後だった。 
松蔭は三十歳で大老井伊直弼による安政の大獄で斬刑される。小伝馬町の牢獄で、死を言い渡され、弟子宛に書き残した遺書が『留魂録』だ。その中で松陰は、人生にはおのずと四季があるのだという。春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬それを蔵に入れる。秋の収穫・・・人間にもそれにふさわしい春夏秋冬がある。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中に二十歳にはおのずから二十歳の四季が、・・・自分は若くして一つも事を成せずに死ぬようだが、穂も出せず、実もつけず枯れていくのではない。三十歳は、自分の潮時なのであり、すでに花咲き実りを迎えたときなのだ。松蔭は、自分の四季を終えて刑場の露と消えたが、彼がまいた種が見事に実り明治維新が実現したのだ。
父の追悼文集に四枚の写真を最期のページに並べた。二十代、四十代、六十代、そして恍惚になってからの写真だ。最後の写真に黄落(こうらく)のときとキャプションを入れた。写真を見ていると、実りある人生だったと思うが、父のまいた種はどこかで実っている。私にもぼつぼつ最後の実りの時が待ちうけている。さて、どんな花を咲かせてどんな実がなるのか、なったのか。

もの・もらい・・・

 父が中年になって、糖尿病を患っていた。合併症も見られなかったから母の食事制限の苦労や生活管理が大変だったのも知らず、高齢期になっても元気な父を見てたいした病気じゃないと、侮っていた。
私が糖尿病が怖い病気だと認識したのは、アメリカ映画「マグノリアの花たち」だった。ジュリア・ロバーツ演ずる女性が主人公。結婚式の日の美容院のシーン、彼女が突然、目が据わって、玉の汗を浮べ意識が無くなっていく。母親の差し出すオレンジジュースを払いのけた。瞬間には何が起こったのだろうと驚いた。それが糖尿病の低血糖症状だったのだ。
 「マグノリアの花たち」は原作者のロバート・ハーリングが糖尿病の合併症で妹のスーザン(三二歳)を亡くした実体験をもとにして書いたブロードウェイの演劇を映画化したもの。主人公は、医師から出産だけは諦めるように言われていたが、まわりの心配を押し切って可愛い男の子を生む。しかし、腎臓に合併症を起し、母親から腎臓の提供を受けて移植するが、手遅れで亡くなる。悲嘆のどん底に居る母親を女の友たちが支え慰まして。彼女が立ち直っていくというストーリーだが、その姿が、アメリカ南部の州花『マグノリア』のようだということでタイトルになっている。若く美しい主人公が亡くなるシーンでは映画館全体が号泣した。 
私は、父のことがあるから、内心では糖尿病予備軍と思っていたのに、映画を観てからも、病気を重く受けとめずに暴食飽食を続けた。仕事仕事で体を酷使し(関係ないかも)、結局、六十歳でⅡ型糖尿病と診断された。しかし、毎月一回病院で診察してもらい、血糖値を計り、薬を処方してもらっていた。何も起こるわけでもない。血糖値も“ヘモグロビンa1c”の値も気にはなっていたが、体調は良いし、日常生活は変わりなく働いていた。
ところが、五年前、朝、車で出勤中、前方に霧がかかっているようで見えにくいことが気になった。視力が落ちているのかと思い眼科医を訪れた。診断は糖尿病網膜症、かなり悪化していて、いつ大出血を起こすかも知れないから、すぐに治療しないと失明もしかねないということだった。
それから数週間後、警告されていたとおり大出血が起きた。視力が極端に低下し、右目が見ええない。運転ができなくなった。たまたま夫の友人が眼科医のS先生で、受診すると、すでに彼の医院での治療では手におえない、大病院で手術を必要、手術をしても日常生活に必要な視力の回復が得られないこともあると言われた。S先生の紹介で眼科界では“神の手”といわれているY大学病院のK先生を紹介された。手術は大成功で、現在は日常生活が送れるほどに、そう、こうしてマグノリアの制作ができるほどに回復している。先生方のおかげだと、感謝は尽きない。
三年前、父は九七歳で逝った。病気と付き合いながらの大往生だった。私も、つい喉もと過ぎれば・・・になるけれど、今は辛い食事制限に耐え忍んでいる。この歳で死んでも誰も“美人薄命”なんていってくれそうもないから、この際、父からもらったありがたくない『もらいもの』と、仲良くやっていくしかなさそうだ。