みのり

昨年の春、桜が散ったころに父は彼岸へ旅立った。去年から追悼文集やアルバム作りをしながら父のことを懐かしく思い出す。同居もしていなかったので、いつもは頭から離れていたくせに、もう居ないのかと思うとたまらなく悲しい。
享年九十七歳、家族のために働き続けた人生、誰にでも温かく優しく接し、子煩悩の父だった。父は四十年間、警察官としては地域を守り、常に弱い人の側に立って働いた。死んだ後に受章をして戴いたが、額に入った立派な内閣総理大臣からの賞状より、警察官を辞めるとき百人もの地域の人たちが書いてくれた『ありがとう』の寄せ書きが大きな勲章だ。
父は若い頃から、幕末に生きた維新の精神的な指導者とも言われている吉田松陰の信奉者だった。脚色もあろうが、お酒が入ると子供だった私に松蔭の話をした。黒船が伊豆に現れたときは、アメリカに行こうと小船で黒船に近づき捕らえられた話やお母さん孝行だったという話、投獄されて斬首された話、何度も同じ話を繰り返し聞かされたものだから、子どもながらにいつのまにか、辞世の歌(家族宛)まで覚えてしまった。
親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん 
「親心」の深さを読んでいる。祖母が大好きだった父は自分が私に親を大切にと戒めているのでなく、自分が子として祖母のありがたさを語っていたように思う。父は十年ほど前から恍惚の人となり、松蔭の留魂録を手にしたのは亡くなった後だった。 
松蔭は三十歳で大老井伊直弼による安政の大獄で斬刑される。小伝馬町の牢獄で、死を言い渡され、弟子宛に書き残した遺書が『留魂録』だ。その中で松陰は、人生にはおのずと四季があるのだという。春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬それを蔵に入れる。秋の収穫・・・人間にもそれにふさわしい春夏秋冬がある。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中に二十歳にはおのずから二十歳の四季が、・・・自分は若くして一つも事を成せずに死ぬようだが、穂も出せず、実もつけず枯れていくのではない。三十歳は、自分の潮時なのであり、すでに花咲き実りを迎えたときなのだ。松蔭は、自分の四季を終えて刑場の露と消えたが、彼がまいた種が見事に実り明治維新が実現したのだ。
父の追悼文集に四枚の写真を最期のページに並べた。二十代、四十代、六十代、そして恍惚になってからの写真だ。最後の写真に黄落(こうらく)のときとキャプションを入れた。写真を見ていると、実りある人生だったと思うが、父のまいた種はどこかで実っている。私にもぼつぼつ最後の実りの時が待ちうけている。さて、どんな花を咲かせてどんな実がなるのか、なったのか。