黄落のとき

 シルバーウィーク,両親に会うために帰省した。故郷は甲府盆地の南端に位置し、富士川の河岸にある市川大門町。中世以来の和紙生産と江戸時代からの花火の産地であり、夏の神明の花火で知られる。その町に94歳の父と89歳の母が妹夫婦に助けられながら肩を寄せ合って暮らしている。
5年前、妹は、スープの冷めない距離から、声が聞こえ目の届くところにと、家の敷地内にバリアフリーの家を建てさせ、二人の半自立的な暮らしを支えている。
最近の父は、時々脱水状態を起こしたり、風邪をこじらせたりして入院することもあるが、日常は厳しい妹の管理のもと、午前は経理の仕事に励み、午後は、午睡と散歩と規則正しい生活を送っている。
遠くに住んでいるので、ちょくちょくは無理だし、仕事がら、長逗留もできないが、ただ、顔を見にいかないと老親を放り出しているような後ろめたさがつのるから、年に一、二回は帰省する。
「お父さん、ただいま」
と庭にいた父に呼びかけると
「どちらさんですか」
 見知らぬ人に向ける目が応えた。
「どうしたの、私よ、冗談いわないで」
と怒ったように云うと、父は、怯えるように後ずさりした。
母が私に向かって首を横に振り、
「父さん、一番かわいがってたシーコだよ』
と、諭すように言った。母の言葉で、父は一生懸命、私を見つめ記憶の中から私を探そうとした。多分、母の言葉で、脳裏に浮かぶシーコは、こんなおばさんではないはずだ。かわいそうなお父さん。
『いいから入って、時間が経てばだんだんにわかってくるから』
妹が促した。夫が父の手を取ると
「どちらさんですか、ご親切に」  
 ギター伴奏でお座敷ライブが始まった。父が昔好んで歌った演歌や軍歌を歌った。父の十八番の『だれか故郷を思わざる』や『純情二重奏』を歌うと、楽しそうに口ずさんでいた。父の心は、どの時代を浮遊しているんだろうか。私を見る目はうつろだ。
 夕方、父の散歩に付き合った。富士川の河岸を二キロほど一時間かけて歩く。歩みは確かで、杖で地面を押さえながら決まったペースで進む。
私がすれ違ったご近所さんと話している間に父はどんどん歩いていってしまい、ススキが波打つ川辺の道で父の姿を見失った。思わず『お父さん』と読んだが返事が無い。私の記憶の彼方に、お父さんと呼べば駆けてきて抱き上げてくれた父がいた。私は、いつのまにか、一人残された子どものような不安なおもいで父を追った。
 父は、河岸から土手道に上る道を歩いていた。走っていった私が、ねを上げた。
「お父さん、疲れたわ。一休みしない」
「そうしよう、いつもこの辺で休むんだ」
 父が応える。顔を上げると、南アルプスから甲斐駒ケ岳八ヶ岳まで、盆地を取り囲む山々が一望に広がる。
「山は変わらないね」
「うん、裏山に隠れているが富士もある」
「ほんと」
「シーコ、からだを大事にするんだよ」
「お父さんこそ、がんばって」
「うん、それでも、もう疲れたよ」
「『よの中はくふて糞してねておきて……』だねえ。一休さんの言葉だけど」
 父は、うんうんと頷いた。私たちは、ほんの束の間、父子だった。
 山陰に太陽が傾くと一挙に夕闇がおし寄せてくる。晩酌代わりに葡萄ジュースを飲み、わずかばかりの夕餉を食べると、父は妹にベッドに促された。  
「最期は突然だろうけど、慌てないでいいから」と、別れ際に母が言う。
「家で看取ると決めてるから、了解してて」と、妹は頼もしい。
就寝中で父の見送りはなかった。次に会う時、私を認知してくれるかどうか。生きててくれるかどうか。父、まさに黄落の時。