涙ぐむ眼

今年も9月14日がめぐって来た。苫小牧から1時間半、穂別の富内、風にそよぐコスモスと豊穣の波、大きな虹が山間にアーチをかけて歓待してくれた。賢治観音堂にいくと、今年は初代の横山村長の37回忌だそうで、札幌に住む娘さんがご主人と参っていた。穂別町は浅野晃と親しかった横山町長が彼の影響を受けて賢治のイーハートブを実現しようと発電所を作ったり町興しに貢献した。横山町長を偲んで富内に賢治観音像ができたり、銀河ステーションができたり、賢治が設計した涙ぐむ眼の花壇は部落中に人が花木を植える。毎年一度、賢治の命日の1週間前の9月14日には、花壇の前で、銀河の祭りを催すのだ。
苫小牧に移り住んで4年、私は、祭りの夜は、富内にきて日本各地から集まってきた賢治ファンの人たちと過ごすことが楽しみだった。各地の賢治会の代表者や、自然農法の農家の人、松戸の賢治の朗読会の「つめくさの会」のメンバー、俳優の松村健次郎さんなどが常連だった。
プログラムは例年の通り、地元の富内小学校の校長先生が駅長さんで登場し、小中学校あわせても30人足らずの子どもたちの「☆めぐりの歌」で始まった。今年は、TVで報道されていたように65歳以上の高齢者が創る「田んぼでミュージカル」の撮影が進んでいて、そのテーマ曲や何曲かのオリジナル曲が地元のバンドによって演奏された。まったく、高齢者で映画を創るなんて、奇抜なことを考える人たちだと、うらやましいおもいがする。
 毎年、ここで会う人の中に岩見沢浄土真宗のお寺の僧侶がいる。寺山修二なんかと親交があって、彼自身もポーランドに演劇を学ぶために留学していた変わった人。一見は僧侶とは思えないが、それでも、賢治の詩を詠むと、読経を聞かされているような不思議な気分になる。NYのメーシーズで買った私の大好きな帽子を一目で気に入り、毎年、朗読にその帽子を被る。今年も夏の日差しでやけた私の帽子を取り上げて賢治の詩を朗読した。
 賢治は日蓮宗の熱心な信者で、国柱会(2・26北一輝)に属していた。賢治の童話は布教のために書かれたといわれているが、しかし、彼の父親は、熱心な浄土真宗東本願寺派)の信者だった。全国布教していた若いころの暁烏敏も、何回か賢治の故郷の花巻に夏期講習会ということでやってきては講話をした。賢治の子ども時代の写真の中に、暁烏敏を見つけたときはびっくりした。暁烏敏の全集や日記を読み漁っていたころだったから、この偶然に感動した。暁烏は、石川県の真宗大谷派(お東)の寺に生まれて僧侶となり、清沢満之の弟子となった。
私は数年前に浄土真宗のお寺で主催する「歎異抄」の講座を受けた。中に有名な文章、「善人往生、ましてや悪人おや」がある。私は、もともと善人は救われるんだから、悪人をも救ってくれる、これこそ仏じゃないか、と解釈していた。ところが、そこをひっくり返された。悪人こそ、畜生のあなただからこそ救われる、というのである。「地獄は一定すみかぞかし」にも驚いた。親鸞は、「地獄になど落ちないように」なんていう、あらゆる人間の奥底に潜む上昇志向をくすぐるような、甘っちょろいことは決して言わず、「地獄落ちでも構わない」と言い放つ。恐ろしいほどの「仏(ぶつ)の教え」に対する信頼である。
 親鸞の生き方に私は暁烏敏を重ねた。下世話な話かもしれないが、彼は、女性との愛で苦悩する。妻がいるのに、自分の精神世界を理解をしてくれる女弟子を愛してしまう。彼は悩み苦しみ、しかも、愛した女性は病死してしまう。このことを「更正の前後」で発表し世間に知らしめた。本願寺の役職は追われて自分の寺に蟄居、その時、傷ついた息子をやさしく迎えたのは母だけだった。十億の人に十億の母あれど、わが母にまさる母あらんや・・は、暁烏敏の詩である。
 岩見沢の僧侶氏は、来週、亡き暁烏敏のかわりに、弟子だった林暁宇(ぎょうう)さんを石川県の鍋谷に訪ねるという。彼は、私に大きな人に出会いなさい。心の中に大きな風が吹く。ほんとうの人間に会いなさい、と私を諭す。そう、私も林さんに亡くなる前に会って話したいと思った。
 賢治のおかげで、富内にきて、今年もいい出会いができて、話に花が咲いた。最近、ばさばさ乾いていく自分の心が少し、潤ったような気がする。あの風に揺れるコスモスの花を、傷ついて街にくらす人たちに送りたい。だれもがこういう場所を持ってほしいものだ。