みちゆき

『木曾路はすべて山の中である。あるところは
岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり・・・一筋の街道はこの森林地帯を貫いていた』

 島崎藤村の長編小説、『夜明け前』の冒頭の文章だ。 私は、この文章に魅かれて旧中仙道、木曽路を歩く機会を狙っていた。周りにいる山女たちは、藤村に興味も示さず、街道を歩くなんてヤワな話に乗ってこないし、文学少女たちは藤村の生地には興味あるけれど、木曽の山中を歩くなんて、女同志では危険だからと、たおやめぶって一向に実現しなかった。ところが、連休前のサクラも終わった頃、前日までは、友人だったH君が、私のいいなりになり得た時期だったので、ボディガードを任じて木曽路への二人旅が実現した。
新幹線で東京から名古屋まで行き中央本線に乗り換えて中津川駅で下車、そこから木曽路を宿場に泊まりながら二泊三日で南木曽まで行くという全行程、徒歩旅行の予定を遂行した。
さて、一日目、中津川から出発、春風に頬をなでられながら、のどかな田園風景の中を歩き始めた。峠越えの山道にかかったが、覚悟をしていたような急な登りもなく、三時間くらいの軽いハイキングで馬籠についた。馬籠は木曽路の一晩南にある宿場で昔の街道の名残をとどめていた。といっても島崎藤村が生まれた町として有名で、宿場の中心に藤村の実家だったという本陣があり、今はその跡が「島崎藤村記念館」になっていた。その日は馬籠に泊まった。
久しぶりの峠越えで、朝はゆっくり休みたかった。ところが、障子が少し明るくなった頃、まどろんでいるところへドアがノックされた。『お客さま、朝のお勤めでございます』、『オツトメ?』、シブシブ起きて、案内されたのが本堂で、そこでは住職が読経し、数名の坊主頭と宿泊客が珍妙な顔をして座っていた。宿泊案内には書いてあったらしいが、宿泊者には、オツトメが義務付けられていたのだ。なんとも目覚めが悪い朝だった。そのころは、馬籠には旅館が少なく宿泊したのは、永昌寺という島崎藤村菩提寺だったのだからしょうがない。
翌日は馬篭から妻籠へ峠を越える。木々に囲まれた木曽の街道を存分に満喫した。杉の木がうっそうと茂り日光も差し込まないような道を進む。昔なら山賊たちが待ち構えていただろう。中山道は、皇家や摂家の女性が将軍家へ嫁ぐ街道でもあったため、別名『姫街道』とも呼ばれていた。将軍家へお輿入れた和宮さんもこの道を通ったとか、東下りは心細かった上に、この山道には恐れをなしただろうと、感無量だった。                                   
二泊目は、寝覚ノ床と言う奇岩が並ぶ景勝地で泊まる。浦島太郎が玉手箱を開けて寝覚めたので、その名がついたとか、浦島神社があったが、もともと浦島太郎なんて伝説上の架空の人物だし、何もご利益がなさそうなので手を合わさず、賽銭もあげなかった。
いよいよ最終日、寝覚めの床を出発して妻籠から南木曽まで最後の峠越え。もう、すっかり山歩きにも慣れて、ご機嫌で『花笠道中』なんか口ずさんでいた。ところが、山中で休みすぎたのか、歩みが遅かったのか、いや浦島神社の祟りだったのだろう。南木曽駅に着いた時は、な、なんと最終列車が駅を発った直後だった。いずれにせよ、次の日まで、もう下りの東京方面行きの列車は無いという。彼も私も翌日から予定が詰まっていた。どうしても今日中に中央本線で東京に戻らねばならない。こんなときに。男は頼りにならないものだ。
私は、勇気を出して国道の路肩に立ち、アメリカ映画のヒッチハイクシーンさながらに、短めのキュロットスカートをずり上げて親指をつきだした。数台、素通りされたが、まもなく若いドライバーが車を止めてくれた。「どこまでいきたいの」「塩尻でも松本でも中央線の駅までお願いできますか」「いいよ」「実はもう一人いるんだけど」「なあんだ、連れが居るのか、しょうがねえなあ」、しぶしぶ了解してくれた。私がVサインを出すと物陰に隠れていた夫がとびだしてきた。
今、思い出しても恥ずかしい話だが、これが私たちの初めての道行き、ハネムーンの顛末である。スタートラインがこんなだったのに、私たちは幸運にも、逸れることもなく、回り道をしたり、道草しながら、二人での道行を続けている。