私と音楽 

 
 私が生まれたのは、戦後間もないころで、家は昭和の始めから、映画館を経営していた。敗戦で疲弊しきった人々にとって娯楽の中心は映画だった。町で唯一の館は押すな押すなの大盛況で、映写技師以外の仕事は祖母や母も手伝っていた。赤子の私は、母に背おわれたり映画館の2階の桟敷に寝かされていてそこが生活の場だった。
私が子守唄のように聞かされたのが、映画の主題歌だった。松竹映画『そよかぜ』(1946)の主題歌リンゴの歌や、『青い山脈』(1949)の青い山脈などの戦後の映画や、『のぞかれた花嫁』・(1935)の主題歌、二人は若いや『愛染かつら』(1938)の主題歌、旅の夜風など、いろいろな歌を聞いて育った。東京行進曲、枯れすすき、籠(かご)の鳥、鐘の鳴る丘、君の名等々は、すべて誰に教わるとも無く、映画館で自然に覚えたように思う。映画館の運営を復員してきた伯父が任され、結局,父は公務員になって故郷を離れた。そのころには、私はすっかり歌が大好きな女の子になっていた。
 結局、歌は好きだったが、音楽は楽しみ程度で理系に進んだ。しかし、学生時代には,YMCAでレクリエーション・リーダーとして活動、就職先の日立製作所では研究職だったが、企業内学校で教え、レクリエーション活動を任された。代々木の岸体育館に通い、日本レクリエーション協会の研修や講座で、みんなで歌うことの楽しさや喜びを学ばせてもらった。若い岡本仁先生や後藤新平さんたちが、指導にあたっていた。さらに、キャンプソングやレクソングは、YMCAでのキャンプ研修や実習を通して学んだ。このYMCAでの経験は後にボースカウトのスタッフとして、活動するのにどれほど役にたったことか。
 1972年、3人の子ども達を連れて夫の米国勤務に同行,NYに住んだ。言葉もわからない生活習慣も異なった外国暮しは不自由も多かったが、新しい体験の連続で楽しい毎日だった。子どもたちは、4歳の長男、日本語もままならない2歳の次男、そして8ヶ月の長女。子どもたちを集団生活の場に溶け込ませてくれたのが音楽だった。
そのころ、Ms.Jane Heinが、近くの公立図書館で毎週1回、1時間の「Bilingual Music Progrm」を行っていた。英語を母国語としない子どもたちに歌を通して楽しみながら英語に親しんでもらい現地の生活に慣れさせようという目的だった。たくさんのチャントやわらべ歌をギターに合わせて歌った。
Janeは 地元の『Hoff-Barthelson Music School』でギターを教えていたが、幼児音楽が専門だった。彼女は透き通るような声でギターに合わせて歌う。日本語のわらべ歌や童謡にも興味を示して、私が歌う童謡の歌詞を訳してレコードを作ったりした。ギターは持ち運びが可能なこと、鍵盤楽器より子どもに近く、子どものほうに向かって演奏できる、だから使うべき、というのが彼女の持論だった。私には、3人の子どものために楽器が必要だから、ギターを習うようにと諭した。滞在中の2年間、週1回、帰国したら、幼児の音楽教育をするという条件で無償でフォークギターを教えてくれた。Janeにとって、『音楽は趣味であり芸術であり癒しであり生活手段である』といったが、私自身には趣味でしかなかった。
話はそれから、15年後、私は再度、15歳になった娘と、夫の海外転勤に同伴して米国の田舎に移り住んだ。高校一年生の娘は言葉はまったく話せない。幼児の時とは、まったく違う異文化との遭遇であった。留学を望んで少しでも準備教育があったのならまだしも、突然、親の都合で海外生活を強いられた娘にとっては、日常のやりとりができない状態で、高校生活を送るということは大変な悲惨な状況だったように思えた。ところが、一日の5時間の授業の中に、2時間の音楽の授業をとることになった。もともと音楽だけは得意でピアノやウクレレを習っていた。「ドレミファソラシドは日本語と同じよ」と言う娘の明るい声が今も忘れられない。娘はフルートを習い、学校のオーケストラと、マーティング・バンドのメンバーとして活躍、なんとか高校生活を終えた。その後もインディアナ大学で音楽を専攻。もし、彼女が音楽という賜物を持っていなかったら、どんな人生を歩んだろうか。娘は、音楽は心を表現する手段、言葉がなくても通じ合えることを体得したのだ。
私は、今から15年ほど前、まだ音楽療法と言う言葉も知らないころ、高齢者の施設で歌うボランティア活動を始めた。約1時間、友人3人で歌ったり、話したり。始まる前は、まったく知らなかった人たちと音楽を通して心が通い合い、心と心がふれあうことを知った。歌いながら昔を思い出し、涙したり、目を輝かしたり、癒されたりする(と勝手に思ったが)場面をなんども体験した。老人保健施設で月2回の活動は、約十年間続いた。そして、3年前、ナラティブ音楽療法を知り、今までやってきた実践と音楽療法の学びの理論が合致して、音楽療法士として進んでいく勇気や力をいただいたように思う。。
最近は、逗子市内の特養、有料老人ホーム、ディサービスに5ケ所、地域のサロンに1ヶ所、月6回のセッションと、他にグループホームなど、頼まれればどこにでもでかけて、いろいろなイベントに出演させていただいている。幼い日に聞かされた古い映画の主題歌、レクソングやキャンプソングやゲームも私の中で融合してセッションの中に生かされている。Janeから幼児教室でと・・・と習ったギターは、ヘタクソながらも、高齢者の歌の伴奏にいかされているから彼女との約束を違えたことにはなるまい。要は人生に無駄は無いのだとしみじみ思う。
セッションで眠っていると思っていた方が、TV番組の『水戸黄門』の主題歌『人生涙あり』を弾いたら、顔を上げて大声で歌いだしたり、『早春賦』を立ち上がって両手を前に組んで歌い出す方、調子はずれなのに体中の全エネルギーで歌う。そんなときは私も負けずに大声であわせて歌うのだが、本当に楽しいと思う。
Janeは「音楽は趣味であり芸術であり癒しであり生活手段である」といったが、私にとっては、音楽は芸術にはほど遠く、生活手段にもならないが、趣味であり、まぎれもなく『生きがい』であり、そして多くの出会いを創出してくれる手段である。