蝉
 苫小牧の市街地に住んでいた去年の夏は、蝉の声など一向に気にならなかった。ところが今年は関東の南に居るせいか、それとも記録破りの暑さで蝉が大量発生したのか、耳を劈くばかりの蝉の大合唱に閉口した。『蝉時雨』は夏の季語だが、連日の蝉の合唱は、晩秋にしとしと降る時雨というより、むしろ『蝉豪雨』といったほうが相応しい。『うるさい、黙れ』と叱りつけたいのをこらえて汗を拭く。
日陰を作ることにしか役に立たない庭のケヤキの大木を舞台に、セミたちは唱う。主旋律はミンミン蝉、ツクツクが加勢し、バックはアブラやヒグラシが受け持つ。ミンミン蝉は“ミーン”と二分音符で鳴いて“ミンミンミンミン”と4拍の四分音符で続け、最後にもう一度“ミーン”と伸ばして一区切り、これの繰り返し。時々場所を変えるので、鳴きやむが、次々と登場してくるから音が途切れることはない。
 八月中旬、父の新盆で山梨の実家に帰った。盆入りの朝、母が早くから台所に立っている。慣れた手つきで、うどん粉をこねていた。朝からうどんでもないだろうと訊ねると、無言で、平らに伸ばした生地を四角に切ってナスで作った馬の背に乗せた。鞍を作っていたのだ。「大きすぎるんじゃないの」という私に、「お父さんは、馬に乗り慣れていないし、不器用な人だから、落馬しちゃあいけないと思って大きくしたの」と、母は真顔で応えた。
軒先に提灯が飾られ、仏壇の横に祭壇が設けられて、花や果物篭、菓子に酒、そして母の作ったナスの馬が並べられ、初めて彼岸から帰ってくる父の魂を迎える準備が整った。
『お迎えは早く、送りは遅く・・・』と母に急かされて、父の魂を墓に迎えにいった。町全体を見渡す高台で、鎮守の森を背に墓石が並ぶ。父にはモダン過ぎる黒御影の真新しい墓石の下に、骨壷に小さく纏められて眠っていた。
ここも蝉の大合奏。声高に鳴きだした一匹のミンミン蝉。“ミーンと始めたが、ミンミンミン”と途中までしか鳴けない。鳴き直したが、やっぱり最後まで鳴けない、不器用もの、といいかけて、思わず“おとうさん、かもしれない”と思った。せっかく鞍を作って用意している母には悪いが、ナスの馬より、蝉に転生して帰ってきたのかもしれない。
『ありがとう、ご厄介かけます』が、口癖だった父。周りへの気遣いばかりで、家族や介護者を困らせることはほとんどなかった。旅立ちの日もデイケアで過ごし、いつもどおり夕食を食べて、床に入り、眠るように、ひっそりと逝った。数日前に『世話になったなあ。ありがとう。もういいから』と母に言ったそうだから、自分では最期を予感していたのかもしれない。
 若いころ、父は軍人で中国の戦線にいた。吉田松陰の辞世、“親思う心にまさる親心 今日の訪れなんと聞くらむ”を好きで松蔭の母を思うこの歌に自分の境遇を重ねていた。母に戦死の報を聞かせて悲しませてはならないと、必死で生き抜いたのだと話してくれた。享年九十七歳、これだけ長く生きたのだから、父の死を悲しむより、彼岸で祖父母は首を長くして待っていたのかもしれない。
暦が進んで彼岸が過ぎた途端、秋がきた。土の中で、最期の1週間だけ地上の明るい光の中で、命の力を振り絞り鳴く蝉たち。夏の間だけ生きることを許されていた蝉の声が消えて虫の音に変わった。夏を謳歌していたあの蝉たち、いったいどこにいってしまったのだろう。いまいましかった声が、今はなつかしい。