初舞台

 アメリカに住んでいた頃、五十五歳の私は、芝居の初舞台を踏んだ。ルイビル大学の教授でコンテンポラリー(現代劇)劇場の演出家のバート氏に「脚本が日本人なので、どうしても日本人の出演者が必要だ」と懇願されて首を縦に振ってしまったのだ。
劇は、清水邦夫作『火のようにさみしい姉がいて』を英訳したもの。彼の言うとおり、確かに憲兵、位牌、毒消し売り、間引き等々、米人には分からない風習や言葉が多く役者というよりむしろ、内容を理解する上で日本人の助けが必要だったのだ。
私は主役の男の故郷の老婆の役だった。台本を手渡されて読み合わせを始めた途端に恐ろしくなった。セリフは七つもあり舞台には出突っ張り。セリフは簡単な英語だが、ヒアリングが苦手な私には、セリフを入れるタイミングを取るのが至難の技だった。 毎日、受験勉強の時のようにセリフを暗記し、前後のセリフを夫に演じてもらい練習を重ねた。立ち稽古に入ったが、動作としゃべりがちぐはぐになったり、動きに気を取られてセリフを忘れたり。それでもバート氏の厳しい指導と、他の出演者の助けがあり、いよいよ公演の初日を迎えた。
 楽屋にはあちこちに「ブレイク ユア レッグ」(がんばれよ)と書かれた励ましのビラが掲げられ、化粧台のテーブルにはお祝いの花束が届けられた。いつもの稽古の時と違う張りつめた空気が楽屋に充満している。舞台中央で瞑想している人、なにげないように談笑している人もぎこちない。私は、顔をメークでしわくちゃにされ、白いスプレイで髪をまっ白にされて、甥っ子役の男の子に抱えられるように登場した。花道にでると客席にいる夫が下むいてクスクス笑っている。
幕が上がり芝居は始まった。うん、さすが本番はいつもより力が入っている。いいぞ、いいぞ、なんて思っているうちに劇は進み、村人が男をなじる場面になった。その時、隣の甥っ子役が私の手をぎゅっと握った。あっ、セリフ!私の番だ。あがったのか、迫真の演技に聞き惚れたのか、私は自分のセリフを言うのを忘れるところだったのだ。彼の合図のおかげで、大きなミスにならなかった。 多分、観客にはわからなかったろうが、終演後、バート氏にはセリフの遅れを指摘された。二日目以降は大きな失敗もなく、連続五夜、述べ五百人くらいの観客数だったろうか。打ち上げは飲んで食べて歌って騒いで。約三ヶ月間、一緒に苦労した仲間と、言葉を超えて共感でき、最後にはハグしてみんな泣いていた。
最終日の翌朝、開いた新聞の芸能欄に結構大きな見出しで芝居の記事が載った。国際色豊かな出演者や清水邦夫という日本人の脚本が奇抜だったこと、主役の男とその妻を演じた役者の演技がすばらしかったことが書かれて いた。残念ながら老婆役を演じた日本人の女優については何も触れられていなかった。その後、出演の依頼はこなかったので、私の女優人生は初舞台で終ってしまった。
『人生は舞台であり。人は皆、役者』といったのはシェイクピアだが、人生の舞台は、初演から六十八年目のロングランだ。私は主役でディレクターだから、どんな場面も自由自在に演じることができるし、疲れたら休演日があってもかまわない。でも、そうこうしているうちに芝居は終幕に近づいている。華やかなスポットライトが当たらなくても、観客が多くなくても、そんな事は、どうだっていい。幕が下りる時に自分が演じてよかったと思えるようなそんな舞台で終わりたい。


※火のようにさみしい姉がいて〜ストーリー
俳優生活に疲れを感じてきた40過ぎの俳優の男が妻と郷里に帰り、バス停の場所を聞こうと入った理髪店。劇はこの理髪店と、店のカガミに写る出来事で進行する。男は、店主の女と客の元薬売りをしていた老婆たちの悪意に捉えられ暴力沙汰に巻き込まれる。脱出できなくなったところで、見ず知らずの男が弟と称して現れ、更に店主の女が実は姉だと言い始め、遂にその言葉に従って姉と認める。帰ろうとする間際、その姉と男の間に生まれた子供の位牌を川に流していくようにいわれ、その時、突然、妻が自分の方が男より才能があると宣言するので、男は妻の首を絞め、倒れた妻を抱き起こそうとするところで終わる。(幕開けはオセロー公演の男の楽屋で、全編を通してオセローが妻のデスデモーナをなじり殺す場面が何度か繰り返される)