伝えること

今から15年前、私は小さな学童保育所の指導員をしていました。夏休みにPTAが学区の小学校の体育館で、「はだしのゲン」というアニメの映画会をするからということで、声がかかり、私は20人の子どもを引き連れて参加しました。
 「はだしのゲン」は、広島で被爆した子どものアニメだと聞いていましたが、アニメなら小さい子ども達にも衝撃は少ないだろうという安易な気持ちででかけたのです。
原爆が炸裂したシーン、爆弾がとびだしてきそうな画面とドーン、ビリリリという音響で、あっ、これはと思った瞬間、私の近くに座っていた3年生の妙子ちゃんが「キャー」と、全館に轟くような大きな悲鳴をあげて泣き出しました。館内の子どもたちは一瞬騒然となり、私は彼女を抱きかかえて外へ飛び出しました。外にでても、妙子ちゃんは体を震わせて私にしがみついて「こわいこわい」と泣きました。
 私は映画が終わるまで、校庭の木陰で妙子ちゃんと話していました。
「たえちゃん、先生も原爆の映画を学校で見てね、怖くって泣いたのよ。だからあなたが怖いっていう気持ちがよくわかるわ」
「先生、私はあの時、自分も焼かれるかって思ってこわかったの」
「そうね。私は大人になってもずっとずっと原爆が怖かった。今も思い出してもこわいわ」
妙子ちゃんは、映画を終えて保育所に帰る道すがら、私の手を握っていました。原爆の怖さが、この子の人生にどんな影響をもたらすのだろうかと自分の体験が思い出されました。
 私が幼いころ、見た映画は、新藤兼人監督の「原爆の子」という映画でした。1952年、原爆投下の広島でロケし実際被災した広島の子どもたちがつづった作文を基にして脚本ができたということでした。そんなことは映画をみせられた小さい私は何もわかりませんでした。一発の爆弾で、家や学校、一つの町が壊された。父や母や妹やそして友達が一瞬にして吹き飛んだことを間のあたりにみせられた感受性の強い少女だった私は、広島という地獄を疑似体験し、私自身が原爆の子であるような錯覚を持ちました。
 ピカッと光った熱線に焼かれ溶けてしまった。ドンと音がして吹き飛ばされ、電車に乗っていた人もそのまま焼かれ、生き残った者は焼けた皮膚を垂らして水を求めてさまよう。人たちが、家族と共に家に住み、生活をして絆をつくり、あたためあって生きている幸せが一瞬のうちに消えてしまう。そのころ、千羽鶴を折ったけれどその甲斐もなく原爆症で亡くなった「サダコ」の話も、同じくらいの年齢だから、もし、私が広島にいたらと思うと、他人ごとではなくつらい思いがしました。
家にレコードプレイヤーがあって、フォークのような歌の入ったぺらぺらのソノシートのレコードの中に、その歌が入っていました。細い女性の声で歌っていました。

扉をたたくのはあたし 
あなたの胸に響くでしょう
小さな声が聞こえるでしょう
あたしの姿は見えないの

十年前の夏の朝 私は広島で死んだ
そのまま六つの女の子
いつまでたっても六つなの

あたしの髪に火がついて 目と手が焼けてしまったの
あたしは冷たい灰になり
風で遠くへ飛び散った

あたしは何にもいらないの 誰にも抱いてもらえないの
紙切れのように燃えた子は
おいしいお菓子も食べられない

扉をたたくのはあたし みんなが笑って暮らせるよう
おいしいお菓子を食べられるよう
署名をどうぞして下さい

トルコの革命詩人・ナジム・ヒクメットの書いた「小さな女の子」という詩だったのです。そのころの私は、原爆で死んだ女の子が、今もここにいて扉を叩いている。その子がお菓子も食べられなくて、悲しがっている事を私に訴えているのだと思いましたが、体中が焼けただれているといる女の子がかわいそうということもあったけれど、もし、私がそうなったらどうしようということの恐怖が強かったと思います。
私は、映画や貞子の話、死んだ女の子の歌が、戦争が人間にもたらすぞっとするような体験を、他人事としてではなく、自分自身にも起こり得る事として生々しく体験したように思います。だれにもわかってもらえないだれにも話せない恐怖を持ちながら、生きていることが怖くてなりませんでした。その怖さが私を戦争を忌み嫌う子どもに育てたのかもしれません。
 大人になって私は、戦争反対、二度と許すまじ原爆をと運動しながらも、広島に行くという気持ちがもてませんでした。日本人ならだれもが思うように、広島は特別な場所だと思っていましたが、そこに行きたくないというのは、子ども時代の鮮烈な体験のある種のトラウマだったのかもしれません。
1990年から、5年間、私はアメリカに住んでいました。その間、ずっとアーク・テイラー先生から英語や歴史を学んでいました。先生はミッショナリー(牧師)として戦前、中国に渡り終戦で、日本に引き揚げてきて、四国学院大学で長く教鞭をとっていました。後に学長になられましたが、退職後は帰米して、ルイビル州・ケンタッキーで学者や宗教家、被爆者や教師たちと、反戦平和、原水爆反対、米国の原爆投下の責任などを訴え続けていました。私は先生に頼まれて、ケンタッキー・ルイビルで原爆投下の日に行ってきた「ジュビリー広島・長崎」の企画を手伝いました。先生は、私に、アメリカの子どもたちに原爆投下のことを伝えて欲しいといいました。私は、被爆後、白血病で死んだ「SADAKO(貞子)」の話しして、子どもたちに平和への願いをこめて、鶴を折りましょうと訴えました。子どもたちは、「ピース」と書かれた折り紙の言葉を包み込みようにして鶴を折りました。日本の鶴は難しいといって、羽をバタバタさせて飛ぶ鶴を折った子もいました。
そのことが新聞やローカルテレビで報道されたものですから、その後、ピースエジュケーション・センターから次々と各学校で授業をして欲しいといってきて、私は、小学校から高校までの生徒たちに「SADAKO(貞子)」の話をしてまわりました。そして、1995年、原爆投下50年の日に、廻った学校の子どもたちから、二千羽の鶴を託されました。その鶴を「貞子の像」に捧げるために、とうとう、私は、1995年8月6日、原爆投下50年目の日に広島を訪れたのです。
 広島は、青い夏空に夾竹桃が元気に咲き誇っている白い街でした。川辺で、原爆をテーマにした映画のロケをしていたり、灯篭流しがあったりしましたが、原爆ドームの立つ平和公園の付近以外は、戦争の後はまったく残っておらず、私が恐怖していた広島は、こざっぱりした地方の中心都市に変貌していました。
折り鶴を高く掲げた「貞子の像」の前で、原爆記念日平和公園にやってきた世界各地の人々に、米国の子ども達が折った鶴をアピールしました。広島訪問で、私にとっての恐怖の町、広島という子ども時代のトラウマから開放されたのです。
 たえこちゃん、今、どうしているのでしょう。きっと、二人ぐらいの子どものお母さんになっているでしょうか。あのときの衝撃が反戦平和への思いになって、さらに子どもたちに引き継がれていることを願って止みません。