人形交流の光と影  ①ミス富山との出会い

 10年前、夫の海外駐在に伴って渡米し、アメリカ中西部のルイビル市の郊外に暮らしていた。そのころ、NHKの「歴史への招待」を読み、日米親善交流のために日本から送られた市松人形が近くの美術館にあったこと、まもなくオハイオ川の洪水で水没したを知った。私は、「市松人形」だったというのが気になって、焼失ならともかく、水没ということなら、もしかしたら残っているかもしれないと、一縷の望みを胸に美術館を訪ねた。受け付けの女性に「日本の人形のことできました。ご存知ですか」と聞くと「はい、もちろん」と云う。私は狐の抓まれたような気分でもう一度「昔、贈られた市松人形のことですよ」と訊ねた。彼女は「そうですとも。ちょっと待って」といって私を奥に通し、若い女性の学芸員に紹介した。「去年、NYに住む小林さんという日本女性が訊ねてきて、あなたのように人形の話をしました。その時まで美術館のだれも人形のこと知らなかったのです。在りませんというと、彼女はがっかりして帰っていきました。それで、私が気になって倉庫を探したら、ボロボロになった人形があったのです。パスポートやお道具もでてきました。彼女の名前は「ミス富山」、1927年に渡米、米国の子どもたちに贈られた58体の一体だったのです。今は、富山県に本社のあるケンタッキーの日系企業が支援して、彼女は修理のために日本に里帰りしているんです」と、彼女は目を細めた。修復された「ミス富山」は、数ヶ月後にルイビルに帰ってきて、美術館に飾られるということだった。人形は無事だったのだ。私は帰り道、誰かまわず、手を握ってありがとうを云いたい思いだった。
 人形が贈られたのは1927年(昭和2年)。日米の関係が悪化していくことを憂えて、シドニー・ギュリック師が平和と友情の精神を子どもたちから育てていこうと人形交流を呼びかけた。「友情の人形」(Friendship doll)は全米から12739体集められ、パスポートを携えて1927年1月、横浜港に到着し、日本中の小学校や幼稚園に配られた。日本政府は、人形のお礼を贈ることになり、全国の小学校の女子児童から人形制作費用が集められて、一体350円もする(給料が40円〜50円の時代))市松人形が58体、その年のクリスマスに海を渡った。人形は各県名を付けられて、パスポートを持っていた。人形使節一行は、熱狂的な歓迎を受けて、各州に一体づつ配布され美術館や博物館に展示されたのだ。それから、日米の戦争を挟んで70年、人形たちはどん運命を辿ったのだろうか。私はたくさんの市松さんの安否が気になって、インディアナポリスの子ども博物館に行ったり、ピッツバーグカーネギー研究所に資料を送って貰って私は人形交流という世界にまぎれこんでいた。