れいとレイナ

  学生時代の友人のれいがネイピアに住んでいる。苫小牧、ネイピアの姉妹都市交流30周年記念の訪問に参加したのも、27年ぶりに彼女と会いたい思いに駆られたからだ。
 れいとは大学で同じクラスだった。変わった子で遅刻は多いし、授業はよくサボるけれど成績は良かった。私も彼女も学Y(学生YMCA、聖書研究をするクラブ)に入ったが、部室ではほとんど会わなかった。しばらくして彼女は、軽音楽部に転部して、ボーカルでブレンダリーの曲なんかを歌っていた。それでも男子学生の中の数少ない『女の子』同士、学食で昼を食べたり、お茶をしたり、リポートの貸し借り、一緒にキャンプに行った思い出もある。
 卒業時、工学部の女子学生は、男女差別の荒波を真っ向から受けた。求人欄には殆どの会社が男子学生に限ると書かれていた。行き先は、なかなか決まらなかったが、どこかには落ち着くもので、私は日立製作所武蔵工場、れいは、ノーベル化学賞を受賞した東京工業大学白川英樹先生の研究所に技官として就職した。
私たちは、国分寺、世田谷と、都内に住みながら、行き来する間も無く、彼女は伴侶を見つけて結婚をした。相手が郷里の建設会社の御曹司だったから、大学へ戻ってマスターコースに進んだ。
 私は、今の夫と結婚し、ニューヨークに住んだ。彼女からの突然の手紙で、生まれた娘のレイナがダウン症だったことを知らされた。れいはアメリカで施設にいれたいから探してほしいといってきた。ダウン症の兄弟を持つアメリカ人の友人が、
「施設はあるけれど勧めない。小さい子どもに必要なのは母の懐、両親の家に勝る施設はありません。ダウン症の子どもたちはゆっくりと、確実に一歩一歩成長していきます。これからの人生を大いに楽しもうと思っています。そのためには、絶対、両親の援助と笑顔が必要です」と。れいに書き送ったように思う。
 私がその後、会ったとき、彼女は、娘の教育のために孟母三遷をしていた。しかし、どこへいっても、結局、日本での障害児の教育、特に義務教育は彼女らが望んだものではなかった。レイナは、健常児と育つ速さが違うから、一緒に教育を受けさせるという統合教育を好まなかったのだ。
れいは、シュタイナー教育が実践されている『ホヘパ(Hohepa)』という障碍者のコミュニティで娘を育てようと、ネイピアに移っていった。いつも気になりながら、それ以降、彼女とは会っていない。
27年ぶりにネイピアの空港で、抱き合ったれいは、洗いざらしのブルージーンズにティーシャツといった昔のままの出で立ちで、髪に白いものが混じっていることを除けが、時が立ったのを忘れてしまう。
 彼女の家は、ネイピアの中心街から少し離れた高台にあった。レイナの父親のTさんとは三十年近く別れて暮らしているから、すでに夫というより親しい友人の関係だ。
二十年ほど前、ネイピアで、パートナーの男性との間にジャニーという女の子を儲けた。戸籍の無いNZでは、男女が結ばれても結婚という関係をとらないで、パートナーという事実婚のような関係で暮らすカップルも多い。
 れいは、レイナをホヘパに通わせ、ジャニーを育てた。翻訳をしたり、留学生の世話をしたり、大変だったろう。今は、成人したレイナはホヘパのコミュニティで暮らし、ジャニーはオークランドで働いている。家には、パートナー氏の代わりにウサギのバニーが一緒に暮らしていた。
ホヘパは、彼女の家から二十分くらい。広い牧場に囲また山の上に、小さな校舎が建っていた。数人の子どもたちが、散策をしていた。山を降りると大人のコミュニティ、子どもたちの施設より更に何倍も広い敷地に、授産施設が並び、その周りに五、六人で住まいしている家が並んでいた。戸外には、柑橘類の食べられる木々がいっぱい実をつけていた。昼は授産施設で働き、夜は一戸の家に共同生活をしている。父母の役割をするスタッフが同居していた。
 授産施設は、ローソクを作っている作業場、木工工芸をしているメンバー、羊の毛を紡いで布を織る作業場、農場には牛や羊が放牧されていて、搾られたミルクはチーズ工場で加工されていた。
私はレイナを探した。みな姉妹のように似ていて、みつけられない。作業所の見学を終えて、休憩室に入った時、レイの顔に笑みが浮かんだ。視線の先にいた女の子、私がれいを見ると彼女が頷いた。そこには、まるで天使のような微笑を浮かべたレイナがいた。