裕ちゃん

 北海道に転居してすぐに小樽の裕次郎記念館を訪ねた。たしか、神戸に生まれて逗子に転居する間、裕次郎が9歳まで小樽に住んでいたということで建てられたそうだ。♪『北の旅人』が流れていて使っていた車、衣装やグッヅが並んでいた。私は、逗子こそが裕次郎のルーツだと思っていたから、入館料1500円も高かったし、さほど感銘を受けなかった。
 裕ちゃんより一世代若い私は、中、高校時代、映画に登場する彼に夢中だった。後の「太陽にほえろ」とか「西部警察」に代表されるようなアクション系の映画もあったが、初期のころは、普通の青年の恋とか生き方などを描いた映画、『青年の樹』『世界をかける恋』『あじさいの歌』等に登場する裕ちゃんのはにかんだ笑顔に夢中になり、心奪われた。今はあんまり聞かれることはないが、好きな男性はと問われたら、夫には悪いが、若いころの裕ちゃんと応える。初期の銀幕時代の石原裕次郎こそ、私の青春の恋人に他ならない。
 告白すれば、中学時代、父の引き出しから株主優待券を持ち出して、良子ちゃんという友だちと、町の映画館に通った。おおらかな時代だったのだろう、中学生が頻繁に通っても咎められたことは一度もない。96歳で健在な父には、今だに秘密事項だ。
 1961年に、スーパースター『石原裕次郎』が、スキー場での骨折事故で療養のため、下部温泉郷でおよそ2ヶ月間を過ごした。マスコミ関係、見舞いに銀幕を飾る有名スターも続々と滞在先の下部ホテルにやってきた。私も、電車で下部まで20分くらいの身延にすんでいたから、春休みになった日に、これまた、父母には内緒で下部ホテルにでかけた。会えなかったことはいうまでもない。
 カラオケが登場したころ、音域も狭く肺活量も少なく、おまけにシャイ(恥ずかしがり屋)な私は人前でマイクを持って歌うなんて思いもよらないことだった。それでも、歌はないわけにはいかない場面に追い込まれと、デュエット曲、「銀座の恋のものがたり」や「夕日の丘」など歌った。一度でいいから裕ちゃんと片寄せあって歌いたいと思った。
 結婚してから住んだのが、裕ちゃんが育った逗子だった。我が家の子どもたちが通った逗子中学校も彼の母校であり、家の裏にある曹洞宗の海宝院は石原家の菩提寺だ。(亡くなったら、きっとこの寺に来るだろうと思って待っていたのに)逗子海岸沿いに裕ちゃんが育ち、ヨット仲間と青春を謳歌したころの住まいがあった。板塀に囲まれた木造の骨董品のような家だったが、まわりに逗子デニーズができたりマンシャンが立ち並んでも、昭和という時代を証しするかのようにしっかり建っていた。通るたびにわんぱく坊主の裕ちゃんが仲間を引き連れて飛び出してくるような思いにかられる特別な空間だった。
 ところが、正月に帰省して久しぶりに海岸どおりを走ってみると家がない。旧石原邸は取り壊されて、アスファルト舗装されて往時の面影を残すのは、塀の土台の石積みのみ。目を疑ったが、建物が無くなって彼方に海がみえた。『つわものどもが夢の跡』と、喪失感で胸がつまる。
 その後、鶴見にある菩提寺総持寺の墓前でお参りすることができた。手を合わせて裕ちゃん、やっと合えたねと語りかけた。昭和9年生まれで生きていれば、いいおじいさんの裕次郎は 52歳のまま眠っている。


※葉山の真名瀬(しんなせ)漁港付近より。右手は森戸海岸といい沖の岩礁地帯である名島には鳥居が立ち龍神が祀られている。鳥居のそばには裕次郎灯台がある。戦後の日本映画の大スターである石原裕次郎氏は昭和62年度(1987)に52歳で亡くなった。裕次郎氏の3回忌を記念し兄の石原慎太郎氏が会長を務めていた日本外洋帆走協会が基金を集め名島に建設した。高さは約11mで3秒に1回白色光が点滅する。正式名称は葉山灯台である。岸の森戸神社は源頼朝創建といわれ境内裏には裕次郎氏の記念碑が海を臨む。記念碑には映画「狂った果実」の主題歌の一節「夢はとおく 白い帆にのって 消えていく 消えていく 水のかなたに」が刻まれている。下部には「太陽の季節に 実る 狂った果実達の 先達 石原裕次郎を 偲んで」と刻まれている。鐙摺(あぶずり)地区の葉山港は日本のヨット発祥の地である。明治15年(1882)農商務司法大臣金子賢太郎の息子が外国人のヨットレースを見て横浜本牧の造船所で作らせたヨットを葉山の別荘へ持ち込んだ。昭和39年(1964)の東京オリンピックでは江の島湘南港と共にヨット会場となった