青山あり

                                               
 十年前、苫小牧駒沢大学国際センター長の先生の下、私はスタッフとして働いていた。第一印象は怖かった。にこりともせず厳しい物言いをする。特に怒るとすさまじい雷が落ちる。
「役に立たないものは出ていけ」
 と、事務室を追い出された先輩もいた。先生の機嫌が悪いと察すると、できるだけ目を伏せていた。しかし、忙しいのに、学生に関わる話しは、よく聞いてくれたし、相談にのってくれた。方針を決めたら、徹底的に信頼され任された。留学生を預かる事は、命を預かることと心得えていたから、私も使命感に燃えていた。姿を見せない学生を探しまわったり、不法就労の通報があると夜の街を聞き歩いた。怪我をした学生に付き添い病院で夜を明かしたこともある。 
「何かあったら、いつでもいいから連絡しなさい」という先生の言葉に護られるように働いた。
 先生は、米日本大使館防衛駐在官(ワシントンDC)勤務を終え帰国して求めた日本的な「焼き物」と「温泉」が趣味となり、週末はほとんど温泉か、窯元を訪ねていた。蒐集した作品は、当時「ぐい呑み美術館」として大学に陳列されていた。
 そのころ、学長だった大久保治男氏との語らいで、彼らが歴史的な因縁を持った仲だと知った。

 話は一五〇年前に遡る。幕末の頃に歴史を賑わした大老井伊直弼彦根藩の藩主だった。大久保学長の祖先はその彦根藩の家老職、後に井伊直弼の住居だった『埋木舎』を贈与されるほどの重職だった。学長は十五代、埋木舎を賜ってから五代目の当主に当る。一方、室本先生の故郷は岩国市、実家は錦帯橋の近くに現存している。祖先は岩国藩士だ。『桜田門外の変(1860.3)』で井伊直弼が亡くなった後、幕府は2回の長州征伐をした。慶応二年(1866)、第二次征長軍芸州口先鋒は、彦根藩使番竹原七郎平は、従者二名と共に先陣をきって小瀬川を渡ろうとしたが、迎え撃つ長州軍の銃火を浴び河中に倒れ最初の犠牲者となった。心ならずも、異郷に死んだ三士の遺骨は、岩国の品川清兵衛により、その勇を讃える碑文と共に安禅寺に手厚く葬られたという。
「長州は敵だが、先生の故郷の岩国藩の方々に、先祖たちが丁重に葬っていただいた。あのときのご恩は生涯忘れない」
 と、大久保先生。
「いやいや、そんな話しは水に流して呑みましょう」
 と、両雄は彦根と岩国の幕末の武士になって酒を酌み交わす。
 室本先生は、駒澤大学を退官された後、大久保先生が副学長をしておられる武蔵野学院大学に招聘されているから、先祖の恩返しをその後も実践しておられるのだろう。
 私が大学を辞めるとき、先生は「人間到処有青山」と書かれた色紙を下さった。怪訝そうな私に先生は、「この意味は、人間は、どこで死んでも骨を埋めるぐらいの、青々とした山はあるから、何処ででも死ねる。だから、故郷を離れ世界に飛びたつのを躊躇してはいけない。大いに頑張りなさい」
 あれから十年。先生は退官され苫小牧を去り、青山を武蔵野に求めた。私は、先生に頂いた「人間到処有青山」を胸に抱えて苫小牧で立ち竦んでいる。ここが私の青山なのだろうかと未だに迷いながら。