『すきとほつたほんたうのたべもの』を

もう20年も前、宮沢賢治の作品を読む会をやっていて、そのグループの中で気が合う仲間と岩手を旅したことがある。花巻と盛岡に一泊し、遠野までいこうじゃあないかと、宿泊先だけ決めてでかけた気軽な旅だった。まずは、花巻で賢治記念館を見学し、盛岡に出た。石川啄木の住居跡の記念館を見て、足の向くまま、ぶらぶら歩いていたが、北上川のほとりの土産品屋に立ち寄った。
 表は土産品屋だが、そこは、『注文の多い料理店』発行元の光原社、及川四郎さんの家だった。「烏の北斗七星」の記念碑や賢治作品の壁書きなどで観光スポットになっていたのだ。
 姦しい客の到来に、初老の上品な女性が奥から出てきた。及川さんの三女、川島年子さんだった。賢治さんの話やお父様の及川さんの話をしてくれた。結局、話しに花が咲き、日暮れまで『光原社』に居座ってしまった。
 『注文の多い料理店』は、大正十三年、川島さんが一歳のときに、若い及川さんたちの力で千部発刊されたが、殆ど売れなかった。夏休みのラジオ体操の景品に子ども達に配ったりしたそうで、家の廊下に積んであり遊ぶのにたいそう邪魔だったと年子さん。今なら貴重品なのよ、家に一冊しかないと笑った。
 店の裏に、宝物殿のようなお蔵が立っていた。及川さんが若いころに面倒を見ていた芸術家たち、川上澄生棟方志功などの作品が所蔵してあった。柳宗悦の名前もでたことを記憶している。
 『注文の多い料理店』の初版本は、ガラスのケースに入っていて、お蔵の中で一番のお宝のように見えた。川島さんは、私の手のひらに、貴重な初版本を乗せて、さあ、開いてご覧なさいといった。黒い表紙に雪景色が描かれていたように思う。さあ、さあ、と促され、恐る恐る厚い表紙を開いて『序』を読んだ。
―序(前略)けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません(初版のママ)―
 賢治は、童話を通してだれもの心に届くように、熱い想いが控えめにやさしい言葉で書かれていた。注文の多い料理店の中には、いくつかのお話しが、どれもが次代を生きる子どもたちへの賢治の心からのメッセージとして書かれていた。賢治が紡いだ言葉がすきとったほんとうのたべものになる、私は雷に打たれたような思いがした。

 還暦を過ぎた私は、今も、賢治の作品に触れるとき、子どもにかえったような素直な心持になる。ほんとうの食べ物は、大人になった私には、なかなか手にとって口に運べないもので、空に浮かんでいる雲をつかむようにむずかしい。
 あれから二十年も経ってしまった。川島さんからは、旅行の後、本の発刊に寄せての古い文章を送っていただいたりしたが、今は音信不通。震災で被災されてやしないだろうか?元気でお過ごしならいいけれど。